私は、昨晩、私のところに集まってくれた村の婦人の皆さんに、「おたふくの面」
の話をしました。私も、人から聞いて知ったくらいのことですが、あれは、昔の婦人
の皆さんが念願した「五徳の美人」の顔なのだそうです。
「五徳」とは何か。第一は、「目」、憎しみの目ではなくて、慈愛の目、よろこびの
見える目、たとえ表面は醜く汚れていても、そのもうひとつ底にある尊いものを見ぬく、
深い目、とらわれのない澄んだ目、それが第一の徳だそうです。この目は、仏さま
の目に通じます。
第二は、耳。生きとし生けるものの声なき声も開きとることのできる耳。ことばに
ならないことばをも、聞きとることのできる耳これが第二の徳だそうです。そういわ
れてみると、ずいぶん大きい豊かな耳になっています。これも、仏さまの耳に通じる
ようです。
第三は、頬。豊かな頬、ふくよかな頬です。愚かな子も、賢い子も、いうことをき
かないやんちゃな子も、みんな包みこんでくれる頬。トランクのように、外から見た
ところは小ぎれいでさっぱりしているが、相手の形よりも、自分の形を優先するので
なく、ふくろのように、相手の形に応じてはたらく「おふくろ」の名がふさわしい頬。
「トランクママ」ではない「ふっくら母さん」。私は、かつて、教員をしていた頃、
受け持っていた二年生の子どもたちに、お母さんの顔をかいてもらったことがありました。
そのお母さん方のなかには、ほっそりとやせたお母さんも幾人かおられたのに、
子どもの絵の中のお母さんは、みんな、ふっくらと、丸顔ばかりであったことに感動
したことを思い出します。この「頬」も「凡・聖・逆・謗」すべてを摂取(救いとる)
してくださる仏さまのお心に通じるようです。
第四は、口。相手をやっつけるとがった口ではありません。皮肉をいうゆがんだ口
ではありません。へつらいの口でもありません。よろこびのことばが、おのずからほころび
出てくる口です。優しい口です。これも、仏さまのお口に通じるようです。
第五は、それらすべてのまんなかにある鼻です。高慢の鼻ではありません。自己中心
の我慢の鼻ではありません。謙虚な、慎みの鼻です。それが、すべての中心にある
ということにも、何か、意味がありそうに思われます。
これは、「和顔悦色施」の「顔」のモデルのように思われます。眼鏡屋さんの鏡に
うつった、ゾッとするような私の顔とは、真反対の極にあるのが、この顔ではないか
と思われます。
この後、幾日いのちがいただけるかわからない私です。日既に暮れ、道、いよいよ
遠しの感もいたしますが、はじかしい自分の顔だけは、忘れないように、今年こそは
「よろこび」をいっぱい袋に貯える年にしたいと思います。
(※「凡聖逆謗」とは=親鸞聖人の「正信偈」に出てくる言葉です。煩悩にまみれて
いる凡夫、清らかな聖者、「五逆」という重い罪を犯した極悪人、仏法を謗った人、
という意味です)