正楽寺日誌 つれづれなるままに

聞くということは
吸収すること

2024.6

 私は長い間、教員をやってきました。私たちは、授業の一環として、話し合いという

時間を設けています。しかし、私は九州から北海道まで、あちらこちらの授業を拝見さ

せていただいて、これが本当の話し合いだというのには、ほとんど出会うことができません。

言い合いなんです。そして言い合いだから討議になります。討議はやっつけ合いです。

本当の話し合いというのは、じつは聞き合いなんですね。

 だから今の若者たちの像を漫画で書くとすれば、文句はよく言うようになったか

ら、口は相当に大きい。大きいだけでなく、人をやっつけるような口ですから、する

どくとがって発達している。目は、よろこびやしあわせが、いっこうに見えず、見え

るのは不平、不満ばかりで、飛び出した目になる。耳はどのように書けばいいかとい

えば、あるかないかの点ぐらい打っておけばいいのではないでしょうか。聞くという

ことを粗末にして、やっつけ合いを育てることが、子どもの自主性を育てることだと

考え違いをしてきたようです。

 私は、これが本当の聞き合いだなと思いましたのは、北海道の根室のある小学校を

訪れたときでした。ここは千九百人の児童数の大きな小学校ですが、一年生の教室で

子どもたちが話しているのを聞くと、子どもの顔ってこんなにも美しいものかなと思

うほと、輝いた顔で話している、その声が、私の声のようにとがっていないのです。

 それはどうしてかといいますと、本当にいい顔して相手の言葉をうなずいて吸収し

て聞いているから、とがった声でなく、しみ込んでくるような声になっているのです。

そして他の子どもがしゃべり出すと、みんなは身も心もそちらに向いて、うなずきな

がら聞いている、これが本当の話し合い、聞き合いなんですね。

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