「私にとってお寺へお参りすることは心の洗濯なんです。」
ある時、そのように仰ってくださったのは、いつも欠かさずにお寺の法要へお参りくださる、一人のご婦人でした。
新元号に変わり、早一ヶ月が過ぎました。
前元号である「平成」とは「平和に成る」と読ませていただくことが出来ました。
この日本に於いては、戦争がない、という意味ではその文字通り、平和であった時代でした。
しかしながら、その一方で、無差別殺人や親が我が子を、子が我が親を殺めるといった残忍な事件が増えたような気がします。
その背景には、「生命の尊さ、有り難さに気付かせていただく」ご縁を頂戴することが
減っているということがあるのではないかと思われます。
それはつまり、生命をぞんざいに扱ってしまう程に死に対しての自覚がない、
生命が在ることが当たり前だと思っている方が増えている、ということに他なりません。
何故そのようなことが起こるのでしょうか。
その原因の一つとして考えられるのは、私達の持つ「煩悩」という自己中心的な心の在り方です。
目まぐるしく物事が移り変わる現代社会では、嬉しいことも腹の立つことも、様々なことに振り回されて過ごしてしまいがちです。
そのような中で阿弥陀様の前に座らせていただき、み教えを聞かせていただく。
そのみ教えを通して自分自身の生命の在り方を見つめ直す時間を持つことが、とても大切です。
阿弥陀様は「良い・悪い」「好き・嫌い」などという私の思いを超えて、
全てのものを分け隔てなく、ありのままに受け入れてくださいます。
阿弥陀様にお参りさせていただくということは、自己中心的な私達の在り方をいつも心配し、
見守ってくださる阿弥陀様のお心に出遇うということです。
それが煩悩にくるまれた私達の心を洗濯するということだと、
住職自身も冒頭のご婦人のお言葉を味合わせていただいたことです。
それでも私達は日常生活に戻ると、また目の前のことに振り回されて日々を過ごしてしまいます。
だからこそ、何度も何度もお参りして、
生きる方向を示してくださる阿弥陀様のみ教えに触れることによって「あぁ、そうだった」と我が身を振り返り、
尊い生命に気付かせていただく時間が大切なのです。
それが阿弥陀様を拠り所に生きるということです。
皆様のご参拝を心よりお待ち致しております。