春は別れと出会いの季節です。
親しい人との別れがある一方、新しい出会いもあります。
どちらが良いという訳ではないのですが、何となく「別れは悲しく、出会いは嬉しいもの」と
思われている方が多いのではないでしょうか。
私たちは物事を自分から見える一方向でしか捉えることが出来ません。
「人との別れ」について申せば、それは「別れ」という出来事ですが、
そこに「悲しい」「寂しい」という感情をくっつけてしまうのが、私たち人間です。
人間はどこまでも自らの思い中心にしか生きていけません。
その結果、自らの思いで自分自身を苦しめたり、「自分の考えが善、自分と異なるあの人の考えは悪」のような
判断をしてしまいがちです。
一方向からしか見ていないのに、全部見えていると思ってしまっているのが、私たちの偽ることのできない姿です。
仏教ではそれを「我(自分の都合・はからい)にとらわれている」「我執(がしゅう)」と言います。
さて、今年は親鸞聖人が「和国(わこく)の教主(きょうしゅ)」と讃(たた)えられ、日本に仏教を取り入れてくださった
聖徳太子の一四〇〇回忌に当たります。
聖徳太子は「世間(せけん)は虚仮(こけ)なり、唯(ただ)仏(ほとけ) のみ是(こ)れ真(しん)なり」という言葉を残されています。
「この世にある物事はすべて仮のものであり、仏の教えのみが真実である」という意味です。
先程も申した通り、私たちの 物の見方は、自らの思いを中心とした一方向からのもので、真実と言えるようなものではありません。
例えば「老い」というもので申しますと、ある人は「情けないこと、目を背けたくなるもの」と、
マイナスの感情をつけることでしょう。
その一方で「人生を色濃く豊かにするもの」とプラスのイメージをつける方もいらっしゃるでしょう。
どちらも「老い」という現象に「私の感情をつけて捉えている」に過ぎず、その感情に振り回されてしまいがちです。
仏さまは「老い」ということも「諸行無常」、つまり、この世のものは絶え間なく変化しているものだと教えてくださっています。
「世間(せけん)は虚仮(こけ)なり、唯(ただ)仏(ほとけ)のみ是(こ)れ真(しん)なり」とは、真実を見ているつもりでも、
実は自分のはからいでしか世界(物事・他者の気持ち等)を見ることができない私たちだからこそ、
仏さまの教えを指針とせよというお示しであります。
私たちは、自分の感情、他人の意見に振り回されていると、つい自分を見失いがちです。
そのような中、「不変の在り方」を教えてくださる仏さまの教えほど、私たちの人生の道しるべとなるものはありません。
それを心の拠り所として、しっかりと生き抜く力を身に付けるためにも、
これからもご一緒に仏さまの教えを聴かせていただきましょう。