正楽寺日誌 つれづれなるままに

阿弥陀さまのお口もと
母のほほえみ

2022.9

 暁烏敏(あけがらすはや)先生(※真宗大谷派の学僧一八七七~一九五四)のお歌に

「十億の人に十億の母あらむも我が母にまさる母ありなむや」というのがあります。

 世界には、たくさんのお母さんがあります。世界一美しいお母さん、世界一賢い

お母さん等々、立派なお母さんが、いっぱいいらっしゃいます。

 その中で、自分のお母さんは、美しさの点でも、賢さの点でも、立派とはいえない

かもしれません。しかし、「私」を愛し、「私」のしあわせを願うことにおいては、ど

んな立派なお母さんも及ぶものではありません。「私」に関する限り、世界でただ一人

の世界一のお母さんです。

 ですから、世界中のすべての人が見捨てても、お母さんだけはわが子を見捨てません。

お母さんは、仏さまのご名代ですから、どんな困った子でも、愚かな子でも、見

捨てることができないのです。

 福岡の少年院にお勤めの先生から、少年たちの歌をいただきました。その中に、

  ふるさとの  夢みんとして  枕べに

  母よりのふみ  積み上げてねる

というのがあります。世の中のみんなから困られ、嫌われて、ついに少年院のお世話

になっているこの少年でしょう。

 そのわが子のために、お母さんは「積み上げる」ほどたくさん、母心を手紙にして、

この少年に注いでおいでなのです。そのやるせない母心にであうと、この少年も、手

紙を粗末にすることはできません。大切な宝にしているのです。そして、それを枕元

に積み上げて、お母さんの心を憶念しながら眠るのです。

  われのみに  わかるつたなき  母の文字

  友寝たれば  しみじみと読む

というのがあります。自分にしか読めない下手なお母さんの字がはずかしいから、友

だちが寝てから読むのでしょうか。

 そんなことではありません。下手くそな文字いっぱいにあふれているお母さんの心

に、誰にも邪魔されずに対面したいのです。その心が「しみじみと読む」ということば

の中に、あふれているではありませんか。

  いれずみの  太き腕して  眠りいる

  友は母さんと  つぶやきにけり

というのがあります。この少年も、たくましい太い腕にいれずみなんかして、意地を

張り、悪者ぶって生きてきたのでしょう。お母さんを泣かせ、世間の人たちを困らせ

ながら生きてきたのでしょう。しかし、眠ってしまうと、意地も何も消えてしまいます。

すると、世の中のすべての人が見捨てても、見捨てることができないでいるお母さん

の顔が夢に浮かんでくださり、思わずお母さんを呼ぶ寝言になったのでしょう。

 このように見てきますと、子どもにとって無くてはならないお母さんというのは、

美貌であってくださることよりも、高い教養を身につけていてくださることよりも、

何よりも大切なことは、仏さまのお心を心として生きてくださるお母さんということ

になります。

 そして、そういうお母さんでないと、美しさも、教養も、子どものための光とはな

ってくださらないといえましょう。

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