あまり苦しまないように、あまり、まわりの者の迷惑にならぬような死に方、それはもちろん望むところです。
が、そんな死に方を選びとる力のある私ではなかったのです。
七転八倒、のたうちまわって死なねばならぬかもしれない私なのです。
でも、のたうちまわって死んでも、「死にともない」「死にともない」と、わめきながら死んでも、
まちがいなく、摂め取られる世界が、ちゃんと、既に成就(完成)されていたのです。
どこまで努めてみても「死にともない」心の重みをどうすることもできないでいる
「かくの如きの」「私」のためのご本願が、既に成就されていたのです。
どんなに努めても、沈む以外ない私を、沈ませない船、それが、私のために用意されていたのです。
ここで、気がつかせてもらってみましたら、私の父は、「人間に生まれさせてもらった以上、
ここまで来なかったら意味はないのだぞ」と、私を臨終の座に呼びよせてくれたのではなくて、
いつの間にか、自分の力を頼む私に、
「そんなもので、人生の一大事をのりこえることはできるものではないぞ」と教え、
「生きても死んでもみ手のまんなか」という世界に目覚めさせるために、
私を呼び寄せ、身をもって、その広大無碍の世界を、私に伝えようとしてくれたのだと、
気付かせていただいたのでした。
そして、思うのです。
ひょっとすると、あの父は、如来さまが、私のためにお遣わしくださった、
如来さまのお使いであったのかもしれないと思うのです。
そして、私にとって一番大切なことを、私に伝え、私を目覚めさせるために、
「父」となって、この世に現れてくれたのではないか、と、思われてくるのです。
さいわいに、今のところ、私に、癌転移の様子はないようです。
しかし、私の妹が申します通り、私も妹も、既に「ひび割れた器」のような身の上です。
いつ壊れても不思議でない体です。
「終わりの時」は目の前にあるのです。
でも、妹も申します通り、「いつ壊れてもみ手のまんなか」です。
終わってから「み手のまんなか」に拾っていただくのなら、
「ひょっとして、拾っていただけなかったら……」という不安もあるのでしょうが、
現在ただ今、既に「み手のまんなか」なのですから、死にざまなどにかかわりなく、「いつ壊れてもみ手のまんなか」なのです。
この安らぎの世界に目覚めさせてくれたのは父です。
父はやっぱり、まちがいなく、如来さまのお使いだったにちがいありません。