私は、今、長女が三歳の秋、お医者さまから「お気の毒ですが、この病気は百人
中九十九人は助からぬといわれているものです。もう今夜一晩よう請け合いません」
といわれた晩のことを思い出しております。
脈を握っていると脈がわからなくなってしまいます。いよいよ別れのときかと思
っていると、ピクピクッと動いてくれます。やれやれと思う間もなく脈が消えてい
きます。体中から血の引いていく思いで、幼い子どもの脈を握りしめていると、か
すかに脈が戻ってくれるのです。このようにして、夜半十二時をしらせる柱時計の
音を聞いた感激。「ああ、とうとうきょう一日、親と子が共に生きさせていただく
ことができた。でも、今から始まる新しいきょうは?」と思ったあの思い。「ああ、
きょうも親子で生きさせていただくことができた」「ああ、きょうも共に生きさせ
ていただけた」というよろこびを重ねて、とうとう新しい年を迎えさせていただく
ことができた日の感激。
その後、男の子二人を恵んでいただき、それぞれが揃って大きくなってくれたの
ですが、日を暮らして勤めから帰ってきますと、百人に一人の命をいただいた娘が
「お父ちゃんお帰り」と叫んで、前から私の首たまにとびついてきます。長男が同
じょうに叫んで後から首たまにとびついてぶらさがります。末っ子はぶらさがると
ころがありません。「モォーッ」と牛の鳴きまねをしながら、四つんばいになって
私の股くぐりをします。「何がまちがっても、絶対まちがいなくやってくることは、
このかわいい者たちと別れなければならない日がくるということだ。それだのに、
いま、こうして親と子が共にたわむれることができるこのただごとでないしあわせ
を、しあわせと受けとらずに、一体、これ以上のどんなしあわせがあるものか」と、
私自身に言い聞かせずにおれなくしていただいた私です。
落せば、今すぐにでも壊れてしまう茶碗が壊れずに今ここにある、そう気づかせ
ていただくと、茶碗のいのちが輝いて拝めます。私たち親子のいのちも、プラスチ
ックのいのちではないのです。だからこそ、無倦の大悲がかけられているのです。
大悲の中のいのち、今年も、しっかり、しっかり生きさせていただきましょう。