正楽寺日誌 つれづれなるままに

拝まないときも
拝んで下さっている阿弥陀さま

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 地獄には既製品はありません。皆、自分の作った地獄に自分でおちこんでゆくのです。

私たちは毎日毎日、地獄を作る営みに精出しています。憎んだり怨んだり、責めたり

傷つけたり。それが再びはね返ってくるものですから、また倍にしてはね返して

いるのです。だから闇は深くなるばかりで、どこまでも長夜は明けようとしないのです。

 ところが、闇が深まるほど星が輝きますように、より深い暗がりの旅をつき進む私

たちを見かね、真如の世界にじっとしておれず、声になって飛び出してきて下さった

のが南無阿弥陀仏さまなのです。だから「南無阿弥陀仏」は、天地一杯にみちみちて、

働きづめに働いて下さっている尽十方無碍光如来さまの大悲のこりかたまりであり、

不可思議光如来さまのおいのちのしぼり汁ともいえましょう。

 私が他所へ出かけるとき、自転車で六キロばかり山を下るのですが、途中、地蔵峠

という坂道にお地蔵さまが立っておられます。出がけには”ご挨拶を忘れぬように・・・”

と自分に言い聞かせるのですが、坂道を風を切って下るのが気持ちいいものですから、

たいていご挨拶を忘れてしまいます。ところが、自転車を押して坂道を上がる

帰りのときは、いつもハッとします。お地蔵さまが私を拝んで下さっているのです。

私がご挨拶を忘れて坂を下るときにも、やはり拝んで下さったに違いないのです。

私が合掌するよりも先に、拝んで下さっているのです。拝まないときも、拝んで

下さっている阿弥陀さま。

※「尽十方無碍光如来」「不可思議光如来」はどちらも阿弥陀如来さまのことで、

阿弥陀さまのお救いの働きを表わしたことばです。

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