小学一年生の浦島君は、おじさん、おはさんの家から学校に通っています。
お父さんは赤ん坊のとき、お母さんは、一年生になる前の年の十二月に亡くなってしまわれたのです。
浦島君は、学校に行くとき、おじさん、おばさんだけでなく、お仏壇に向かっても
「いってまいります」のご挨拶をします。
この浦島君が、学校で一番つらい気持ちになるのは、先生が、「お父さん」「お母さん」
の話をなさるときです。友だちは、みんな、お父さんもお母さんもおられるのに・・・
と思うと、やりきれない気持ちになります。
でも、そういうとき、いつも浦島君はハッとします。ミイ坊ちゃんやヨッちゃん
のお父さん、お母さんよりも、もっともっといいお父さん、お母さんが、いつでも、
どこでも、見ていてくださることに気付くのです。というよりは、お父さん、お母さんが、
気付かせてくださる気がしてくるのです。すると、やりきれない気持ちなんか、
ふっとんでしまって、ぐんぐん、元気が湧いてくるのです。
お念仏は、真実の親のお呼び声であり、私を、ほんとうの私に、呼び戻してくださる復元力です。
私たちは、うっかりしていると、すばらしい尊いものを泣き言のタネにしてしまいがちです。
よくよく考えてみると、ほんとうは、しあわせには小さいのはひとつもないのではないでしょうか。
大きいのばっかり
しあわせには
小さいのはない
大きいのばっかり
ちょっと見ると小さく見えるのも
ほんとうは
わたしには過ぎた
大きいのばっかり。
こんな思いがしてきます。自分のねうちをよくよく見ると、まわり中にご厄介ばかり
かけている私には過ぎたしあわせばかりという思いがしてくるのです。
私は、小さいノートを持ち歩いておりまして、よろこびが見つかると、それを
書きとめておくように努めているのですが、うっかりしていると見すごしてしまい
そうな小さく見えるよろこびが、みんな、すばらしい大きいしあわせにつながっている
ことに気づかせていただくのです。若い頃にはうっかりしていたことの中に、
こんな大切なしあわせがあったということを驚くとともに、こういうしあわせにであわせて
いただけるのは、年とったおかげさまかな、と、よろこばせていただくのです。
子どもは、ただのいのちを生きているのではありません。人間のいのちを生きて
いるのです。感じたり、思ったり、考えたり、意志して行動したり・・・という人間
のいのちを生きているのです。相手が子どもだからといってバカにすることは許されません。
幼い子どもでも、すばらしいいい子の芽をいっぱいもっているのです。
おとなが、おとなの思いあがりを捨てて、拝む心で接するとき、子どものいのちは、
おのずから、光りながら育ってくれるのです。
「この子さえいてくれなければ・・・」と考えたこともある子どもを「この子がい
てくれるおかげで・・・」と位置づけたときから教育は始まる。
幼いことものことばに耳を傾けよう。そこには、私たちの心の帰着点である心の
ふるさとがある。
「ふるさと」そこから出てきた私。「ふるさと」それは私の還っていくところ。
子どもを導かなければならない私が、子どもに導かれて、ここまで来させてもらったのです。
(※「聞法」「聴聞」という言葉があります。文字通り仏さまのみ教え<仏法>を
聞<聴>かせていただくという意味です。しかし私たちは、つい「私が私が」とい
う自我の意識が強く、素直に仏さまや相手の言葉を聞こうとしません。東井先生が
紹介されている次のお母さんの話は、そういう私たちの姿でもあるのでしょう)
* *
五年生の子の日記に、
僕のお母さんの叱り方は、大変面白い叱り方です。僕には一言もものをいわ
せないで、ペラペラ、ペラペラ二十分間くらいつづけてお説教します。まるで
『ビルマの堅琴』の映画でみた機関銃のようです。僕はその間よく聞いている
ような格好を、しております。(あんまり聞いとらんらしい)お母さんは叱っ
てしまうと、いつでも「わかったか」といいます。僕は何もわかりませんが
「はい」と言うことにしております。
先生、今日の日記のことは、お母さんに話さないでください。
という日記を書いていますが、どうしても口がとんがってしまうのですね。耳が
粗末になるのですね。聞くということは解ってやるということでしょう。解ってく
れるもののためには、どんなつらいこともがんばるぞ、それが子どもというもので
すね。だから仏様の耳は大きな耳をしていらっしやる。私達の大事な胸の中のつぶ
やきも、ちゃんと聞いてくださってある。この仏さまのお耳に学ばしていただくと、
これはいい子にならずにはおれなくなるのですね。