正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

光に遇うと
光をもたない星までが輝きを放つ

 六年生のG郎君たちの学級では、担任の先生の提案で、生まれたときから六年生に

なるまでのことを、お母さん、お父さんに詳しくお聞きして、夏休みの間に「生いた

ちの記」をまとめる、ということになりました。

 腕白者で評判のG郎君は、背も体もお母さんよりも大きく頑丈なやんちゃ者でしたが、

夏休みに入る前の晩、「お母さん、『生いたちの記』を書くことになったんや。まず、

ぼくの生まれたときのことを、今夜は、聞かせておくれ」とお母さんにお願いしました。

 お母さんは、G郎君を仏間へ連れていかれました。そして、仏さまを拝み、お仏壇

の引き出しから、小さい紙包みをとり出して、G郎君に渡されました。

 ていねいに包んだ包みを開くと、また包みが出てきました。それを開くと、まだ包

んであるのです。「何を、大事そうに?」と思いながら開いていくと、最後に出てき

たのは、小さい、かわいい爪でした。

 「何だ、ばからしい、爪なんか」と、G郎君が、胸の中でつぶやこうとしたとき、

「あんたが生まれてくれたとき、両手にも両足にも、指がちゃんと十本そろった男の

子として生まれてきてくれた。こんな立派な男の子を、仏さまが授けてくださったかと

思うと、うれしくて、うれしくて仏さまに、お礼を申し上げずにおれなかった。そして、

仏さまによろこんでいただけるようなよい子に育てさせていただきますと、お約束せ

ずにはおれなかった。それから、お母さんは、あんたの最初の十本の爪を、お母さん

の、一番の宝物にしてきたのよ」と、おっしゃるお母さんの顔には、涙があふれてい

ました。

 それを見たら、G郎君は、わがままばかり言って、お母さんを何べんも困らせてき

た自分が、一気に思い出されてきて、気がついてみたら、「お母さん!」と叫んで、

お母さんの首っ玉にしがみついていました。そして、お母さんのひざの上に、涙を落

としたといいます。

 翌日から書きはじめた、G郎君の長い「生いたちの記」の、いちばんはじめに書か

れていたのが、このことでした。二学期からのG郎君には、今までの元気さといっ

しょに、優しさが輝くようになりました。

 

数えきれないほどのお米の一粒々々が
いまこの茶碗の中に私のために

 私のような情けない校長に「校長先生、おはようございます」二十一世紀を作って

いく子ども達が挨拶してくれる。なんという幸せだろうかと思いますと、一人一人の

子どもに言葉をかけずにおれません。私が回っていく頃になりますと、四月に入学し

た一年生も「校長先生、おはようございます」私に頭をなでてもらうために廊下に

次々に頭つき出して待ってくれております。「おお、おはよう。今日、何頑張ってく

れるんやな」小さい一年生の頭の熱さが、この「もえさし」の、やせた腕に伝わって

きます。二十一世紀を作っていく熱っぽいエネルギーが伝わってきよる、と思うと、

何という幸せだろうか。そこに、私の幸せのすべてが、ございました。

 でも、それもとうとう燃えつきてしまったわけですが、寂しいことですね。年が寄

るということは、しかし、この寂しさにやっぱり寄りそってはたらきづめにはたらい

て下さっている「はたらき」がなかったら、どういうことなんでしょう。これに寄り

そって下さっているこのお慈悲がなかったら、もう大変ですね。年、寄らせていただ

いたお陰で、私はいつもこんな帳面持ち歩いて、その時々の味わいを書きつけること

にしております。

 こんないただき方では

もったいない

すまない

せめて 噛むだけでも

ていねいに噛ませてもらわなければ……と。

ご飯粒に

南瓜に

茄子に

茄子のごまあえのごまに

詫びながら

噛ませてもらう

食欲不振の

尊いいのちをいただきながら

すみません

南無阿弥陀仏。

悪人正機
この私がめあて

 私が病身な父に代わって勤行していますと、内陣に住みついているらしい古ねずみ

が、お供えしてあるお仏飯をたべにくるのです。私がにらみつけてやっても、それく

らいのことに驚くねずみではありません。どなりつけるような声をはりあげてお経を

読んでも、ビクともしません。そんなねずみの所行を見ながら、ねずみにさえバカに

される阿弥陀様に何ができるかと、思わざるを得ません。

 ところが、気がついてみると、何もできない阿弥陀様を拝んで村の皆さんからお供

えをさせ、それを横どりして生活している私です。ねずみは人をだましませんが、私

は、人をだまして、お供えものを盗む仕事をしているのです。そう気がつくと、さす

がに、自分がはずかしくなります。その思いを、私は、当時の私の日記に、

「坊主、偽坊主、汝は飯を盗むか 糞坊主」と、書いたりしています。

 毎日の勤行は、親鸞聖人お作の「正信偈」と、六首の和讃を読み、その後で、蓮如

上人の『御文章』を読むことになっていました。『御文章』を読んでいましても、い

たるところで、反発ばかりを感じていました。例えば『御文章』の五帖目に、

「それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生

をあながちにたすけたまはんがための方便に……」ということばで始まる文章がある

わけですが、「五劫思惟」ということばに、反発を感じてしまいます。

 「一劫」というのは、四十里立方の城に充たした芥子粒を、三年に一粒ずつとり出

して、全部なくなってしまう時間の長さを現わすことばだそうです。また、四十里立

方の大きな石の上に、三年に一度ずつ天人が降りてきて、その軽い羽衣で石をなでる

と、石が、目に見えないくらいすりへります。そして、その石がすりへり、摩滅して

なくなってしまうまでの長い時間を「一劫」というのだそうです。その「一劫」の五

倍の長さを「五劫」というわけです。

 阿弥陀様の前身であられる「法蔵菩薩様」は、私を救うために、どうにも救う手だ

てを見つけることがおできにならず、「五劫」という長い間、ご思案なさった、とい

うのですが、私にしてみれば、「そんなデタラメがあってたまるか、どこにそんな証

拠があるか」と、思わないわけにはいきません。「そんな、おとぎ話のようなことを、

誰が信じてやるものか」と、考えてしまうわけです。そんな思いを、当時、私は日記に、

 「五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも……しみじみと、偽坊主の罪

探し」

と書いています。

 この「五劫思惟」については、ごく最近にも、その証拠人が、いよいよまちがいな

く「私自身」であったことを、確認させていただきました。一昨々年でした。日展の

作家であられる出石焼の永澤永信先生に、かねてからお願いしていた、私と老妻の骨

壺ができ上ってきました。それを両手でとりあげたとき、全身を電気のようにつきぬ

けた白磁の骨壺の冷たさは、思わず背すじを正させるものでした。こんな気持ちで

「老」を生きることができたら、必ず「輝く老」を生きることができると思いました。

それで、妻と相談して、私どもの居間に、二つの骨壺を置くことにしました。

 しかし、ほんとうにひきしまったくらしができたように思ったのは二日ぐらいだっ

たでしょうか。だんだん、以前と少しも変わらぬ私に戻っていきました。でも、時々、

両手で壺を支えてみると、心がひきしまりましたが、それさえも、度重なるにつれて、

だんだん、感じが薄れていきました。そして、気がついてみると、いつの間にか、ホ

コリをかぶっているようになりました。妻も、同じ思いであったのか「やっぱり、こ

れ、片づけておきましょう」というものですから、とうとう片づけてしまったのです

が、われながら、どうしようもない「私」という人間に驚かされてしまいました。救

いようのない「私」なのです。「五劫思惟」の証拠人、阿弥陀様の救いのお目当(悪

人正機)こそ、この「私」であったのです。

うるおいのある目で見なかったら
ほんとうのことは何も見えない

 既に人生の日がどっぷり暮れてしまっている私です。この私が「人生の朝に立って

いるあなた」に、何としても言い遺しておきたいことは、せっかくいただいた、ただ

一度の人生を「空しい人生」にしないようにしてくださいということです。

 七十年生きても、百年生きても、正味が空しければ、何のねうちもありません。

人生は、長く生きるかではなくて、どう生きさせてもらうかです。そう思うと、私なん

か、はずかしくてなりません。そこで、いままでの人生をふりかえり、私は、近頃、

次のように考え、自分に言い聞かせています。

 忘れていた

 忘れていた忘れていた

 牛のような 静かな 澄んだ

 うるおいのある目で物事を見るのでなかったら

 ほんとうのことはなんにも見えないということ

 ものほしげなキョロキョロした目

 おちつきのないイライラした目

 うるおいのないカサカサした目

 何かに頭を縛られた偏った目では

 しあわせのどまんなかにいても

 しあわせなんか見ることも頂くこともできないまま

 せっかくいただいた二度とない人生を

 空しく過ごしてしまうことになるのだということを

 忘れていた

小さな勇気でいいから
わたしはそれがほしい

 人生の大嵐がやってきたとき

 それがへっちゃらでのりこえられるような

 大きい勇気もほしいにはほしいが

 わたしは 小さい勇気こそほしい

 わたしのたいせつな仕事を後回しにさせ

 忘れさせようとする 小さい悪魔が

 テレビのスリルドラマや漫画に化けて

 わたしを誘惑するとき

 すぐそれがやっつけられるくらいの

 小さな勇気でいいから

 わたしは それがほしい

 明日があるじゃないか 明日やればいいじゃないか

 今夜はもう寝ろよと

 机の下からささやきかける小さい悪魔を

 すぐ やっつけてしまえるくらいの

 小さな勇気でいいから

 それが わたしは たくさんほしい

 それに そういう小さい勇気を軽べつしていては

 いざというときの大きい勇気も

 つかめないのではないだろうか

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