正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

みんなみんな
仏さまのお恵み

 お医者さんの薬だけが薬だと思っていたら

 ちがった

 便所へ行くのにも どこへ行くのにも

 点滴台をひきずっていく

 一日中の点滴がやっと終り

 後の始末をしにきてくれたかわいい看護師さんが

 「ご苦労さまでした」

 といってくれた

 沈んでいる心に

 灯がともったようにうれしかった

 どんな高価な薬にも優った

 いのち全体を甦らせる薬だと思った

 そう気がついてみたら

 青い空も

 月も

 星も

 花も

 秋風も

 しごとも

 みんな みんな

 人間のいのちを養う

 仏さまお恵みの

 薬だったんだなと

 気がつかせてもらった

「自分の家」ほんとうは
「ただごとでないところ」

 忘れることができないのは、文部大臣から「教育功労賞」をいただくことになって

上京するときのことでした。山陰線から東海道線を通って上京する寝台特急「出雲

号」というのに乗ったのですが、私は、三段寝台の一番上段ということになりました。

ところが、向こう側の一番上に寝ているおじいさんの、何とも形容し難い高さのもの

すごいいびきが気になって、どうしてみても眠れません。指で両耳を塞いでも聞こえ

てくるのです。一から順番に数を数えることに精神の集中をはかろうとしてみるので

すが、何十篇、それを繰り返してみても、いびきに搔き乱されて失敗してしまいます。

一時を過ぎても、二時を過ぎても、同じことです。

 ところが、ハッと気がつきました。

「僅かな寝台料金を払っただけで、寝たまま上京して賞状を受ける、賞状を受ける

だけの値打もない者が賞状を受け、新宮殿で天皇さまのお言葉をいただく、考えてみ

れば、ぜいたく過ぎるではないか。しかも、こんな私を、機関士さんは、まんじりと

もせず、闇の前方を見つめ、信号を見誤らないように運転していてくれる、ぜいたく

過ぎるのではないか」

 そう気がついたら、横着でぜいたくな私が、はずかしくなってしまいました。そう

気がついたとたん、眠ってしまったらしく、気がついてみたら、カーテンの隙間から、

朝の光が射し込んでいました。

 自分の家でもないのに、気ままに眠らせてもらえる、気がついてみれば、ただごと

でない、ありがたいことであるのではないでしょうか。

「自分の家でもないのに」と申しましたが、「自分の家」であっても、何もかも忘れ

て、安心して「眠らせてもらえる」「自分の家」も、ほんとうは「ただごとでないと

ころ」であるのではないでしょうか。

草も木も いのちを輝かせながら伸びていく

 草も木も、いのちを輝かせながら伸びていく五月です。

 でも、伸びたがっているのは草や木だけではありません。どんなお子さんでも、

仏さまの願いを信じ、仏さまのお心を心として接してくださる方にめぐりあうと、よい

子にならずにおられなくなってきます。

 Mちゃんは、一年生の頃から女の子の便所のぞきをする、家の金を持ち出してむだ

づかいする、自分の席にじっとしていることができず、歩きまわってみんなの頭をた

たいてまわる、お掃除の時間になると机をひっくり返す、ゴミを蹴散らして暴れまわる、

末恐ろしいやんちゃ者といわれている子でした。

 ところが、仏さまの願いを深く信じているK先生に三年生になったときめぐりあい

ました。これはMちゃんが小学校を卒業してから述懐したことですが、今までであった

ことのない懐かしい方にめぐりあった気がしたというのです。最初の日「明日から

勉強する教室、ピカピカにしようや」と先生がいわれたとき、「先生、ぞうきん貸し

て!」と、思わず叫んでしまったといいます。それをまた先生が喜んでお母さんに手

紙で報告されたのです。お母さんは感激なさり、すぐぞうきんを縫ってあげてくださ

いました。

 翌日「先生、きょうは借りんでもお母ちゃんが縫ってくれた!」とぞうきんを広げ

たときMちゃんはびっくりしました。「がんばれ、しっかり、しっかり」と、太い刺

しゅうがしてあったのです。先生も感激して、「はよう校長先生に見てもらってこい」

といいつけてくださいました。やんちゃ者のくせに気の弱いMちゃんです。毎晩、日

本海くらい寝小便をすると自慢しているやんちゃ者につきそわれて見せに来ました。

私も嬉しくて、仲間にとりまかれてぞうきんを広げているMちゃんを写真に写してや

りました。その頃から彼はものすごいがんばりやになりはじめました。

 そして、五月、鯉のぼりの下で運動会をやった時には、入学以来、文句ばかりいっ

て走ったことのないMちゃんが、はじめて走りました。成績はビリから数えて二番で

したが、先生は「きょうの一番よりもねうちがある」といって、肩をたたいて励まし

てやってくださいました。こっそり見に来ておられたお母さんは、感激して、運動場

の泰山木(たいさんぼく)の木の下で泣いてしまわれました。そして、こういう中で、

ほんもののがんばりやになっていったMちゃんでした。

「あたりまえ」をみんな
なぜ喜ばないのでしょう

 隣の町のお寺の門前の掲示板に、

「目をあけて眠っている人の目を覚ますのは、なかなかむずかしい」

と書いてありました。

「目をあけて眠っている人」というのは私のことではないかと思うのといっしょに、

悪性腫瘍のため亡くなられた若き医師、井村和清先生が、飛鳥ちゃんというお子さん

と、まだ奥さまのお腹の中にいらっしゃるお子さんのために書き遺された『飛鳥へ、

そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社刊)というご本の中の「あたりまえ」という詩を思い

出しました。

  あたりまえ

あたりまえ

こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう

あたりまえであることを

お父さんがいる

お母さんがいる

手が二本あって、足が二本ある

行きたいところへ自分で歩いてゆける

手をのばせばなんでもとれる

音がきこえて声がでる

こんなしあわせはあるでしょうか

しかし、だれもそれをよろこばない

あたりまえだ、と笑ってすます

食事がたべられる

夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる

空気を胸いっぱいすえる

笑える、泣ける、叫ぶこともできる

走りまわれる

みんなあたりまえのこと

こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない

そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ

 なぜでしょう

 あたりまえ

「よろこび」の種をまこう

 私が中学校の校長を勤めさせてもらっていた頃のお正月でした。例年のように

「おめでとうございます」の会を開きました。そのとき、私は、

「大黒さまは、いつ見ても背中に大きな袋をかついでいらっしゃる。そして、いつ

見てもニコニコしていらっしゃる。生徒の皆さん、あの袋の中には、いったい、何が

はいっているのだろうか。いつもニコニコしていらっしゃるところをみると、だいぶ、

いいものがはいっているにちがいないのだが、何がはいっているのだろうか?」

と、質問しました。一斉に手があがりました。一人の生徒を指名しますと、

「きっと、お金がたくさんはいっているのだと思います。だからあんなうれしそう

な顔をしていらっしゃるのだと思います」

 「ほかの考えの人はいませんか?」

と、尋ねてみましたが、一人も手をあげる生徒はいませんでした。みんな、一人残らず、

お金がはいっていると信じているようでした。

 「そうかもしれないね。あんな大きな袋にお金を入れたらずいぶんたくさんはいる

だろうな。だからあんなうれしそうな顔をしていらっしゃるのかもしれないね。だけど、

ずいぶん重いだろうな。かついだときは嬉しかったろうが、その重みがだんだん

肩にくいこんできたら、しかめっつらになってくるのではないだろうか。なのに大黒

さまは、いつもニコニコしていらっしゃる。ひょっとすると、お金ではないかもしれ

ないよ。お金でないとすると何だろうか?」

と、問いをまた生徒に返しました。

 いつまで待っても手があがりません。その中、生徒の一人が、

 「校長先生は何がはいっているとお考えですか?」

と、逆襲してきました。

 「さて、わたしにも確かなことはわからないが、ひょっとすると、あの中には

『よろこび』がはいっているのではないだろうか。だから、あんなに嬉しそうなお顔を

していらっしゃるのではないだろうか」

と、答えました。そして、

 「わたしたちは、みんな、それぞれ、背中に一つずつ袋をいただいているのでは

ないだろうか。そして、しあわせな人というのは、背中にたくさん『よろこび』を貯え

ている人のこと、不幸な人というのは、背中の袋に、不平・不満・愚痴を入れて背負って

いる人といえるのではないだろうか。お互いに、きょう、こうして新しい年を迎えた

わけだが、何とか、今年という年を、光いっぱいの年にするために、『よろこび』

をいっぱい袋に貯える年にしようじゃないか。ところが、わたしは町の大売出しの

福引き券をひいても、マッチの小箱くらいしかあたったことはない。わたしはどうやら

そういう宿命を背負っているらしい。だから『大きいよろこび』とは無縁らしい。

そこで、考えた。みんなが拾い忘れている『小さいよろこび』をたくさん貯えることに

した」

と、宣言したことでした。

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