正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

すばらしい自然の中で
生かされていることのありがたさ

 私は、日本一の貧乏寺に生まれました。それはそれはひどい貧しさで、食べるもの

なんかも今の時代からみると、想像もつかないひどいものでした。秋から冬にかけて

は、「ちょぼいちごはん」という、大根を米粒くらいの大きさに切って米のとぎ汁と

少量の米に塩をふりかけてたいたもので、見たところは白いごはんなのですが、大部分

は大根です。夜たいたときにはムッとへんなにおいがして、なかなかのどを越しま

せんし、朝になるとそれが氷ってガリガリ音をたてるといったものでした。

 その上、親類の借金の請け判の責任をつかれて、家財道具のさしおさえの通知をも

らったのが、小学校五年生の時でした。

 貧乏の上に病人のたえ間がなく、八歳で母が死んだのをはじめに、二十八歳で父が

亡くなりますまでの二十年間に、六つの葬式を出すという有様でした。

 でも、そういうことが結局、私に人生のきびしさを教えてくれることになり、

「よし やるぞ!」という土性骨(どしょうぼね)を育ててくれたことを思うと、

すべてに恵まれている今の子どもたちよりも、私の方がしあわせであったという気がします。

 その上、おもちゃもラジオもテレビも、そういうものを全然もたない私でしたが、

私には、豊かな美しいそして、限りなく広大な自然がありました。

 あれは五年生くらいの時だったのでしょうか。学校の帰り、空の天井について友だち

と議論しながら帰ったことが、今もはっきり思い出せます。秋だったのでしょうか。

とても空が澄んでいました。それを見あげながら

「空の天井は、どこにあるんだろうか?」

「天井なんてあるかい。どこまでいっても、どこまでいっても空なんだ」

「でもその空を、ぐんぐんのぼっていったら、きっともうこれ以上の上はないとい

う空の天井がある気がするんだ」

「そんな 天井なんてないのが空なんだ。いってもいっても空なんだ」

「そこをもっともっと行くんだ。そしたら、もうこれ以上はないという空の天井が、

きっとある気がするよ」

「いや、そんなものはない。いってもいっても空なんだ」

「それをもっともっと行ったら きっと空の天井が・・・」

「それがないんだ。それが『無限』っていうことなんだ」

「おかしいな」

「ふしぎだなあ!」

二人で立ちどまって仰いだ空の青さが、私には今も鮮やかに思い出せます。

 今の子どもたちは、どうもアメリカ文明というか東京文明というか、地上の文明に

目をくらませられて、私たちを育ててくれたあのすばらしい自然を、見失っているの

ではないでしょうか。

 こんな思い出もあります。朝顔の一度咲いてしまった花びらをキリリとねじって、

にせもののつぼみをつくった思い出です。ちょっと見ても、にせものだとわかるのも

ありましたが、中には本当のつぼみのように見えるのもできました。それがひとつく

らい本物のつぼみと間違えて、もういっぺん咲くかもしれないと考えると、あくる朝

が楽しみでしょうがありませんでした。

 あくる朝、夜が明けるか明けないかという時に飛び出して、にせのつぼみが本物と

間違えて、もう一度咲いてくれないかと見にいったものです。ところがひとつの間違い

もなく、ごまかしもなくにせのつぼみは、そのあわれなしおれた姿を下におとして

いるか、かろうじて萼(がく)にくっつけているか、という有様なのです。「花はやっぱり、

知っているんだ!」「花はやっぱり、知っているんだ!」そんなことをつぶやきながら、

朝顔のそばで考えこんでしまった私でした。

 私はこのようにして、すばらしい自然のいとなみの中で生きているということが、

どんなにすばらしいことなのかということを、「自然」によって教えられてきました

し、美しい自然の中で生きている、生かされているということの「ただごとでなさ」

を知らされてきました。

 そういう私自身を思うにつけても、どうにかして私のあずかっている子どもたちにも、

「自然」をとりもどし、人間に生まれてきたということ、生きているということが、

どんなにすばらしいことなのか、ただごとでないことなのかを目覚めさせてやらなければ・・・

と、願わずにはおれないのです。

聞こうという心がなかったなら
聞いていても聞こえない

 人間の目は ふしぎな目

 たったこれだけのしくみで

 なんでも見える すばらしい目

 しかし この目も

 見ようという心がなかったら

 見ていても 見えはしない

 人間の耳は ふしぎな耳

 たったこれだけのしくみで

 なんでも聞ける すばらしい耳

 しかし この耳も

 聞こうという心がなかったら

 聞いていても 聞こえない

拝まないときも
拝んで下さっている阿弥陀さま

 地獄には既製品はありません。皆、自分の作った地獄に自分でおちこんでゆくのです。

私たちは毎日毎日、地獄を作る営みに精出しています。憎んだり怨んだり、責めたり

傷つけたり。それが再びはね返ってくるものですから、また倍にしてはね返して

いるのです。だから闇は深くなるばかりで、どこまでも長夜は明けようとしないのです。

 ところが、闇が深まるほど星が輝きますように、より深い暗がりの旅をつき進む私

たちを見かね、真如の世界にじっとしておれず、声になって飛び出してきて下さった

のが南無阿弥陀仏さまなのです。だから「南無阿弥陀仏」は、天地一杯にみちみちて、

働きづめに働いて下さっている尽十方無碍光如来さまの大悲のこりかたまりであり、

不可思議光如来さまのおいのちのしぼり汁ともいえましょう。

 私が他所へ出かけるとき、自転車で六キロばかり山を下るのですが、途中、地蔵峠

という坂道にお地蔵さまが立っておられます。出がけには”ご挨拶を忘れぬように・・・”

と自分に言い聞かせるのですが、坂道を風を切って下るのが気持ちいいものですから、

たいていご挨拶を忘れてしまいます。ところが、自転車を押して坂道を上がる

帰りのときは、いつもハッとします。お地蔵さまが私を拝んで下さっているのです。

私がご挨拶を忘れて坂を下るときにも、やはり拝んで下さったに違いないのです。

私が合掌するよりも先に、拝んで下さっているのです。拝まないときも、拝んで

下さっている阿弥陀さま。

※「尽十方無碍光如来」「不可思議光如来」はどちらも阿弥陀如来さまのことで、

阿弥陀さまのお救いの働きを表わしたことばです。

きょうは今日という作品を
仕上げさせていただく日

 高等小学の時のことですから、今でいうと中学一年か二年ということになります。

この頃はみんな、何かに反抗してみたくなる年頃なのかもわかりません。それとも、

私はひどい貧乏の中で育ちましたので、子どもの頃からひねくれていたのかもしれま

せん。元日の日記に、

「みんな、めでたい、めでたいといっているが、何がめでたいのか、どこがめでた

いのか、山も川も、いつもとおなじではないか、何もかも、きのうのつづきではない

か。どこがめでたいのか」

そんなことを書いたのを思い出します。たまたま、父がそれを読んで、

「おまえ、おもしろいうことを考えるなあ」

といい、

「だって、ほんとのことだもん・・・」

といったことを思い出すのです。

 でも、皆さん、新しい年を迎えることが、なぜめでたいのでしょうか。どこがめで

たいのでしょうか。山も川も、何もかもいつもと同じではないですか。私自身を考え

てみても、ぬけてしまった頭髪や歯が、新年を迎えたことで新しく生えはじめてくれ

るということもありそうには思われません。もの忘れのひどくなった頭のはたらきが、

新年を迎えたためにシャンとしてくれたということもなさそうです。体だけではなく、

くらしのあり方だって、「元日や、またうかうかのはじめかな」ということになるこ

とは、ほぼ、まちがいなさそうです。

 私は、正月三が日だけではなく、年中、未明に起床します。起きると、冷たい水で

体中をこすります。健康のためと考えたことは一度もありません。体中にしみついて

しまっているような「うかうか」をこすりおとすためです。私の人生は、もうとっく

に日が暮れてしまって、最後の日が目前に迫ってきています。「うかうか」はゆるさ

れない時になってしまっているのです。だから、冷たい水で体中に目を覚まさせなが

ら、「今日という作品を、きょうは、精いっぱいの作品に仕上げさせていただく日」

と、私自身に、きびしく言い聞かせるのです。

人間はみんな
すばらしい

 井上先生が、四年生を担任していたとき、M君という、みんなから困られている

子どもがいました。仲間が掃除していても、少しも協力しないばかりか、せっかく

みんなが掃き集めたゴミを蹴散らしてまわります。仲間が机を整頓すると、ひっくり

返してまわります。そういうとき、これまでの担任の先生は、きびしく叱りましたが、

井上先生はなぜか叱りません。子どもたちには、それがまた不満でした。みんなが、

M君に忠告しても、M君はきき入れようとはしません。

 とうとう、学級委員の女の子が、腹を立てて、M君のことを作文に書きました。

それには、井上先生も知らないM君の行動もたくさん書かれており、「どうして

先生はMちゃんに甘いのですか。もっときびしく叱ってください」という要求も

書かれていました。

 井上先生は、その作文をコピーして、みんなに配りました。みんなも、全く同感

でした。「M君は、どうしてぼくらのいうことをきいてくれないのか?」「Mちゃんは、

どうしてわたしたちのいやがることばかりするのですか?」と、M君を追及する

声が沸きおこりました。

 M君は、黙って、下を向いたままです。

「M君、君にも、言いたいことが、いっぱいあるはずだ、言ってごらん」

と先生が言っても、一言も言いません。

「いえないかもしれないな。ほんとうにつらいときには、口には言えないからな。

では、M君、言いたいことを、書いてみないか」と、書くことを勧めました。

 作文の大嫌いなM君でした。作文なんか、一度も書いたことのないM君でした。

が、そのM君が、ぎっしり、いっぱい、作文を書いてきたのです。それには、赤ん

坊のときから、オシッコのくせがわるかったこと。よその同年の子どものオムツがとれても、

オムツがとれなかったこと。幼稚園にいくようになっても、パンツがぬれたこと。

みんなから「くーさいぞ」「くーさいぞ」「しょんべんこき」「しょんべんこき」

などといっていじめられたこと。いじめられるのがいやで、家にとじこもるようになったこと。

運動しないのでぶくぶく太ってきたこと。日に当たらないので色が白くなったこと。

「白ブタ」「白ブタ」といじめられたこと。それをじっとがまんしていると、

「白ブタを怒らせる遊びをしようや」などといって、持ちものをかくしたり、

履物をかくしたりされたこと。腹を立てると、「白ブタが怒った!」「白ブタが怒った!」

とはやしたてられたこと。「いつかきっとかたきをうってやるぞ。もうおまえたちの

いくことなんか、絶対聞いてやるものか」と考えるようになったことが、ギッシリ、

書かれていたのです。

 先生は、それをコピーして、みんなに配りました。子どもたちは、びっくりしました。

M君を困った子にしていたのは自分たちであったことがわかったからです。

「M君、ごめん!」

「Mちゃん、ごめん!」

 みんな、泣きながら、M君に詫びました。そうなると、M君も、たまらなくなって

しまいました。泣きながら、みんなの前へ出て、

「ぼくこそ、みんなの困ることばっかりやってごめん!」

と詫びました。

 M君が、いきいきとして登校するようになりました。教室のふんい気が、いっぺんに

変ってしまいました。

 いちばん喜ばれたのは、お母さんでした。工場へ出勤するのを二時間も遅刻して、

手紙など、一度も書いたことのなかったお母さんが、忘れた字を思い出しながら、

学級の子どもたちに、お礼の手紙を書かれたのです。

 それには、寝小便のいい薬があると聞くと、どんなに高価でも、買い入れて服用

させたが、効き目がなかったこと。鹿児島に、いいお医者さまがおられると聞いて、

わざわざはるばる診てもらいにいったが、効き目がなかったこと。どうしてお前は

オシッコのくせがそんなにわるいのかと叱ったこと。親でも、どうしてやることも

できなかったのに、皆さんのおかげで、Mが、いきいきと学校にいくようになって

くれましたと、ギッシリ書かれていました。

 子どもたちは、また、びっくりしましました。M君だけでなく、M君のお母さんや、

家族の皆さんまで、長い間、苦しめていたことに気づいたのです。

 みんなが、お母さんに、お詫びの手紙を書いて届けました。それをお母さんが

感激して、また、手紙を書かれました。

 そのお母さんの手紙を、先生は、「学級通信」に載せて、家庭に配りました。

親ごさんたちがびっくりされました。M君という困った子がいるということは、

子どもたちから聞いて、みんな知っておられました。が、「M君の親ごさんは、

どうしてM君を指導しないのか」と、よそごとに考えておられたのです。ところが、

それを、よそごとに考えていた自分たちが、M君や、M君の家の皆さんを、長い間、

苦しめていたことに気づかれたのです。

 このことが、もとになって、子どもの問題を、みんなの問題として勉強しあう、

勉強会が発足し、井上先生とご縁が深いというので、私までその会に参加させて

もらうことになってしまいました。

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