正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

輝くいのち 輝く新年

おめでとうございます。  お父さま、お母さま、お子さま、揃って、このま新しい年をお迎えくださって、おめでとうございます。  私は、今、長女が三歳の秋、お医者さまから「お気の毒ですが、この病院は百人中九十九人は助からぬといわれているものです。もう今夜一晩よう請け合いません」といわれた晩のことを思い出しております。  脈を握っていると脈がわからなくなってしまいます。いよいよ別れのときかと思っていると、ピクピクッと動いてくれます。やれやれと思う間もなく脈が消えていきます。体中から血の引いていく思いで、幼い子どもの脈を握りしめていると、かすかに脈が戻ってくれるのです。このようにして、夜半十二時をしらせる柱時計の音を聞いた感激。「ああ、とうとうきょう一日、親と子が共に生きさせていただくことができた。でも、今から始まる新しいきょうは?」と思ったあの思い。「ああ、きょうも親子で息させていただくことができた」「ああ、きょうも共に生きさせていただけた」おいうよろこびを重ねて、とうとう新しい年を迎えさせていただくことができた日の感激。  その後、男の子二人を恵んでいただき、それぞれが揃って大きくなってくれたのですが、日を暮らして勤めから帰ってきますと、百人に一人の命をいただいた娘が「お父ちゃんお帰り」と叫んで、前から私の首たまにとびついてきます。長男が同じように叫んで後から首たまに飛びついてぶらさがります。末っ子はぶらさがるところがありません。「モオーッ」と牛の鳴きまねをしながら、四つんばいになって私の股くぐりをします。「何がまちがっても、絶対まちがいなくやってくることは、このかわいい者たちと別れなければならない日がくるということだ。それだのに、いま、こうして親と子が共にたわむれることができるこのただごとでないしあわせを、しあわせと受けとらずに、一体、これ以上のどんなしあわせがあるものか」と、私自身に言い聞かせずにおれなくしていただいた私です。  落とせば、今すぐにでも壊れてしまう茶碗が壊れずに今ここにある、そう気づかせていただくと、茶碗のいのちが輝いて拝めます。私たち親子のいのちも、落とせば壊れるいのちです。だからこそ、無倦の大悲がかけられているのです。(※無倦の大悲=見捨てることがない阿弥陀如来の救い)

新しい年が始まりました

みなさま 「明けましておめでとうございます」

お陰様で住職はじめ寺族一同揃って新しい年を迎えさせて頂きました。

肝臓癌が発病してまもなく4年目になります。5年生存率30%以下と云われています。今年はどの様な年になるのでしょうか?おそらく入退院を繰り返しながらの一年を過ごすような気が致します。来年のお正月に書き込みが出来るように頑張らなくてはと考えております。

今年の永代経法要には愛知県名古屋市から「高座説教の祖父江佳乃先生」にご出講頂きます。拙寺では初めての女性布教使の先生です。お盆法要には同じく愛知県の小野先生(東海教区布教団副団長)を、報恩講法要には奈良の高澤先生(奈良教区布教団副団長)をお招きしてあります。

両先生とも長年拙寺の法要にご出講頂いているお顔馴染みの布教使さんです。来年は藤田徹文先生にお約束を頂いています。

僅か3日の恒例法要ですが、少しでも多くのお聴聞の時間をと考えています。どうぞご参詣下さい。

初めてご法要にお参りされるかた、気楽にお寺にお尋ね下さい。電話番号はアクセス地図の下に明記してあります。

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