この度 預からせていただいております足立区の正楽寺が
アメリカのfaith and formという団体の賞をいただくことができました。
この団体は世界中の宗教建築のデザインを評価する団体です。
ページはコチラ
https://faithandform.com/feature/2018-awards-program/
また、その結果が月に1300万人が閲覧するarchidailyといウェブマガジンにて
数ある受賞作品の中でもトップに写真掲載されました。
https://www.archdaily.com/…/faith-and-forms-2018-program-re…
先代が自分の最後の事業と覚悟して
闘病を続けながら建ててくれた本堂・庫裏がこのような素晴らしい賞を受賞できたことは
本当に嬉しく、ただただ感謝です。
設計をしてくださった 樫原徹先生にも心よりお祝いとお礼申し上げます。
あ、写真手前の墓地は隣寺の墓地です😅
ウチの墓地ではありませんので、悪しからず。。
私は、今、長女が三歳の秋、お医者さまから「お気の毒ですが、この病気は百人
中九十九人は助からぬといわれているものです。もう今夜一晩よう請け合いません」
といわれた晩のことを思い出しております。
脈を握っていると脈がわからなくなってしまいます。いよいよ別れのときかと思
っていると、ピクピクッと動いてくれます。やれやれと思う間もなく脈が消えてい
きます。体中から血の引いていく思いで、幼い子どもの脈を握りしめていると、か
すかに脈が戻ってくれるのです。このようにして、夜半十二時をしらせる柱時計の
音を聞いた感激。「ああ、とうとうきょう一日、親と子が共に生きさせていただく
ことができた。でも、今から始まる新しいきょうは?」と思ったあの思い。「ああ、
きょうも親子で生きさせていただくことができた」「ああ、きょうも共に生きさせ
ていただけた」というよろこびを重ねて、とうとう新しい年を迎えさせていただく
ことができた日の感激。
その後、男の子二人を恵んでいただき、それぞれが揃って大きくなってくれたの
ですが、日を暮らして勤めから帰ってきますと、百人に一人の命をいただいた娘が
「お父ちゃんお帰り」と叫んで、前から私の首たまにとびついてきます。長男が同
じょうに叫んで後から首たまにとびついてぶらさがります。末っ子はぶらさがると
ころがありません。「モォーッ」と牛の鳴きまねをしながら、四つんばいになって
私の股くぐりをします。「何がまちがっても、絶対まちがいなくやってくることは、
このかわいい者たちと別れなければならない日がくるということだ。それだのに、
いま、こうして親と子が共にたわむれることができるこのただごとでないしあわせ
を、しあわせと受けとらずに、一体、これ以上のどんなしあわせがあるものか」と、
私自身に言い聞かせずにおれなくしていただいた私です。
落せば、今すぐにでも壊れてしまう茶碗が壊れずに今ここにある、そう気づかせ
ていただくと、茶碗のいのちが輝いて拝めます。私たち親子のいのちも、プラスチ
ックのいのちではないのです。だからこそ、無倦の大悲がかけられているのです。
大悲の中のいのち、今年も、しっかり、しっかり生きさせていただきましょう。
今年も皆様に新年のご挨拶をさせて頂きます事、本当に嬉しい限りです。
今年の正月は「平成最後の正月」です。皆さまにとって「平成」とは、どのような時代でしたでしょうか。
生活の利便性の向上、電子機器の発展、科学や医療の進歩…挙げたらキリのないほど、この三〇年は激動の時代でありました。
そのような中でも決して変わらないものがありました。それは、私たちの生命の在り方です。
お釈迦様は三十五歳の時に悟りを開かれました。
実に二六〇七年前のことです。三十年で生活が激変する時代の中で、仏様の真実の世界は何一つ変わりませんでしたし、
これからも変わりようのないことです。
新しい時代の幕開けを迎えるこの年に、変わらず示され続けている仏様のみ教えに改めて向き合わせていただきましょう。
ご承知の通り、南無阿弥陀仏のお念仏はまじないの呪文でもなく、願いを叶えてもらうための言葉でもありません。
まして、死を連想する言葉でもありません。
私を心配してくださる阿弥陀様に、お浄土へ還られた方々に、感謝・御礼申しあげる言葉です。
今年も大きな声で感謝のお念仏を声に出して、ご一緒にお称え致しましょう。
合掌