どの家も、外から見たところ、ずいぶん立派になってきました。外見だけではあり
ません。中にはいってみても、ほんとに立派になりました。が、どこやら、ぬくもり
が欠如しているのはどういうことでしょうか。照明はすごく明るくなりましたが、心
の灯が消えてしまっているように感じられるのはどういうことでしょうか。
お釈迦さまは、この世に存在するものの相(すがた)を、「生」まれるという
相(すがた)、「生」まれたものが、しばらく、発展的に持続する「往」の相(すがた)、
しかし、これはいつまでも、無限に持続するものではなくて、やがて「滅」の相(すがた)
に入っていく。しかし、「滅」の相(すがた)に入る前に、その予兆として「異」(異変)
の相(すがた)が現れてくると仰せられています。あの有名な歴史学者トインビーも、
これと全くおなじことを言っているわけですが、「家庭の崩壊」、少年少女たちの
おびただしい「非行」や、続発する「自殺」事件は、ひょっとすると、「滅」の予兆としての
「異」(異変)の相(すがた)であるのではないでしょうか。
いま、私たちの国では、おとなも、子どもも、欲望や衝動の促すままに、その充足
に己を忘れてしまっているように思われてなりません。私たちひとりひとりにかけら
れている大いなるものの願いを忘れてしまっているように思われるのです。
これを忘れては「男」は「男」でなくなり、「女」は「女」でなくなるというもの、
「おやじ」は「おやじ」でなくなり、「おふくろ」は「おふくろ」でなくなるというもの、
これを忘れては「私」が「私」でなくなるというもの、仏さまが「どうか、これ
だけは忘れてくれるなよ」と願っていてくださるもの、これを忘れては、スミレはスミレ
の花を咲かせることができなくなり、ボタンはボタンの花を咲かせることができ
なくなるというもの、存在が存在たらしめるもの、存在を決定するもの、存在の根っこ、
根源のいのち、願い、本願・・・・。これを失っては「滅」に入る以外なくなるというもの、
それを忘れてしまっている私たちではないでしょうか。
「根」を失ってしまっては、花を咲かせることも、実を実らせることもできません。
私に、いのちの灯はともりません。
「家庭」は、家族の者が、それぞれいのちの根を育てあう場、いのちの灯をともし
あうところ、私を私にしていただく道場。
そのいのちの灯、生きがいの灯、私を私にしてくださる灯、それが、家庭の心の灯です。
今こそ、家に、心の灯をかかげましょう。