「生」と「死」を超え、血のつながりの「有」「無」をも超えて、俱(とも)に一処(ひとところ)に会う
ことのできる世界(阿弥陀さまの国であるお浄土)、これを如実に教えてくれる作文があります。
これは、ある製薬会社が、「母の日」を記念して、全国の小学生たちから「お母さん」
という題の作文を募集したときの入選作品です。
二人のおかあさん 千葉県 四年 羽根井 信綱
「きょうはおかあさんのお命日よ」
としらせてくれる今のおかあさん。おぶつだんにいつもお花をそなえてくれるのもこのおかあさん。
「おかあさん、ぼくはしあわせなの、だからおかあさんのお命日まで忘れてしまうんです。
わるいぼくですね」
といって、こんどもおわびをしたんです。
なくなったおかあさんは、いつもぼくとねながら、「おとうさんは、いつになったら
ふくいんするのでしょう、ね、信ちゃん」
といって涙ぐんでいた。そういうおかあさんの顔がうかび、おぶつだんにむかって、
ぼくはうっかり「おかあさん」と呼んでしまった。すると、お勝手の方で「はい」と
返事がして、ぼくはあわてた。おかあさんの姿があらわれて「なあに?」といわれて
も返事ができなかった。でも、むりにわらって「何かいいものない?」というと、
「おまちなさい。おかあさんにおそなえしてからよ」
といって、草もちがおかあさんにそなえられた。そして、おぶつだんにむかって、
おかあさんは、ながいながいおまいりをしている。ときどき「信綱ちゃんが……」
「信綱ちゃんが……」と、ぼくのことをおぶつだんのおかあさんにお話ししている。
それをみているぼくの目に、涙のようなものがうかんできて、ぼくの目はかすんでしまった。
おかあさんは、そんなこと、なんにもしらないようすで、おぶつだんにお話ししている。
ぼくは、おぶつだんの中のおかあさんと、その前でおまいりしているおかあさんを、
いろんなふうに考えてみた。おとうさんやぼくだけでなく、なくなったおかあさんにまで。
ほんとにぼくはしあわせだ。
夕飯のとき、このことをおとうさんに話したら、「おまえがかわいいから、おかあさんは、
おまえのほんとうのおかあさんになろうとしているのだよ」
といった。ラジオがやさしい音楽をおくってくれている。テーブルにはお命日のごちそう
がならんでいる。おとうさん、おかあさん、ぼく、おぶつだんの中のおかあさん。
ほんとにぼくはしあわせだ。
「おかあさん、ながいきしてね」
といったら、そばにいたおとうさんはわらっていたけど、ぼくは、なくなったおかあさんが
生まれかわってきた、それが、今のおかあさんだと考えて、ほんとうは、おかあさんの
お命日を忘れようとしているのです。
というのです。これこそ「俱会一処の世界」(倶に一処で会う)ではないでしょうか。
「処」とは、ほとけさまの国、阿弥陀さまのお浄土です。
この「大いなるであいの世界」の中にこそ人間のまことのしあわせがあるのでは
ないでしょうか。ところが、私たちはこの世界を今求めているのでしょうか。「であい」
の方向にではなく、「我」「他」「彼」「此」と互いに自己を主張しあい、責めあい、
壊しあう方向に進んで、その愚かさに目を覚まそうとしないでいるのが、今日の私たち
のあり方ではないでしょうか。