父が死んだのは数え年の六十三、私が数え年二十八の年の十一月三十日でした。
その頃私は豊岡市の小学校に勤めさせてもらっていたのですが、たいへん寒い日で、
教室の窓から見える近所の家のトタン屋根には霰がはね返っていました。父の病気の中
心は神経痛でしたが、あれは天候に敏感な病気らしく、寒い日、湿度の高い日はひどく
痛むようでした。床に就いて七年、終わりの三年は寝返りも自分の力ではできない程
弱っていました。「こういう日は父の体が痛むんだが、ちょっと帰って見てこようかな」
と思うのですが、学校の仕事も気にかかります。その日は水曜日でしたが、「もう中二日
で土曜日だ、土曜日に帰って看病しよう」と考えるのですが、やはり落ちつけません。
迷っているうちに日が暮れてしまいました。日が暮れてからもまだ迷っておりましたが、
夜、十時、「やっぱり気になる。帰ってこよう」と心が決まりました。
豊岡から家までは三十二キロちょっとあります。自転車のペダルを踏む私の顔に霰が
痛かったのが忘れられません。だんだん坂道になります。汗びっしょりで家に帰り着いた
のは、もうすぐ夜半十二時というところでした。
父がたいへん喜んでくれまして、
「生きておれば、役にもたたんわしをこうしてお前たちが案じてくれる。いま息が絶えても、
大きな大きなしあわせのどまんなか、世界中にぎょうさん人間がいるが、わしぐらいなしあわせ
者が世界中にあろうかい」
その声が、だんだん細くなり、淡くなり、消えていったのが父の最期でした。私は、父が眠った
と思ったのですが、義母が父の鼻に手をかざしてお念仏を称えはじめました。
もう呼吸は消えてしまっていたのでした。
父は幼くして生母を亡くし、義母や義母が生んだ弟との間でずいぶん苦しんだようでした。
結婚しましたが、私と私の妹の二人を遺して私の母が亡くなりました。それを手はじめにし
二十年間に六つ葬式を出すありさまで病人の絶え間なく、ずいぶん貧乏をしました。
そういうことで、世間の人々の父に対する評価は低くきびしいものでした。
しかし、世間の評価なんかいいかげんなものです。私は、子どもの頃から、深い、確かな「信」
をいただいている父を尊敬しつづけていました。いつか、西元宗助先生が「東井さんにとって
『よきひと』はどうやらお父さんのようですね」と言って下さったことがありますが、
さすが西元先生だと、たいへん嬉しく思ったことでした。