正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

如来さまのお慈悲に
あわせていただきましょうね

  (注=東井先生のお寺は、すこし高台にあって、周辺に住む人たちがお寺の下に横

穴を掘って、地下水を引こうとします。これに激しい怒りの心がこみあげた東井先生

は、その家にどなり込もうとされます。しかし、お勤めの最中、阿弥陀様のお慈悲を

味わわれて、思い留められます。以下が、そのときの東井先生の想いです)

 如来様のお働きは、死んでから。そんな先の事ではなかったのです。現在ただ今も、

私の為によりそって働きづめに働いて下さっておる。この光に導かれて、自分の恐し

さに気がつかせてもらい、お勤めが終わりますと、下の家へおりていきました。下の

家も、停電で皆んな寝ておりましたが、起きてもらいました。

「門徒の方に知らせてもらって、穴があいたという事を聞いてわしは腹が立って腹

が立って寝られなんだ。寝られんままに、法律の書物を引っぱり出して調べて」と、

一切の始終を話し、仲よく生きさせていただく道を話し合いました。(中略)腹の立

っている真最中に、私に寄りそって、働きづめに働いて下さるお働きがあって下さった

んですね。

 ご開山が、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためな

りけり」とおっしゃっておりますが、ご開山お一人のためということは、如来様のお

慈悲は、私一人のため、皆さんお一人お一人に寄りそって、働いて下さっておるとい

うことですね。校長先生が大勢の子ども達に、誰とはなしに話をしているような、そ

んなことではなかったんですね。一人一人に寄りそって、悲しんでいる時には一緒に

悲しみ、腹の立てている時には口惜しかろうが、このことに目をさましてくれよと、

一人一人に寄りそって、働きづめに働いて下さっているお働きとしていただく時、た

だごとで無い。親鸞一人がためとおっしゃるのは、やっぱり私一人のための、私のお

慈悲であったかと、いただかなかったら、どんな尊い法も、私の幸せになって下さら

んという事ですね。

 ご開山に、出会わせていただきましょうね。

 如来様のお慈悲に出会わせていただきましょうね。私のためのお慈悲と、出会わせ

ていただきましょう。

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