もう、三十年くらいも前のことではないかと思いますが、雑誌「文芸春秋」の随筆欄にある方が「愛情利息論」という文章をお書きになっていたのが、しきりに、思い出されるこの頃です。
夫が愛してくれないとか、友だちが冷たいとか、いろいろ泣きごとを聞くことが多いが、嘆いているばかりでは、ますますみじめになるばかりではないか。
汲み上げポンプの水がでないとき、水が出ないと嘆いていないで、呼び水を入れる、そして汲み上げの努力をすれば、入れた水も一緒になって戻ってくる。
愛情が欲しければ、こちらから、愛情の呼び水を入れ、汲み上げ、奉仕の努力をする。
水が噴き出るまで、その努力を続ける・・・・・・というような内容の文章だったと記憶しています。
年をとって、これを思い出すのは、老人の生き方の上にも、これは、大切なことを教えてくださっていると思うからです。
年をとるということは、さみしいことです。社会的役割りを失います。存在への関心も失っていきます。
視力を失い、聴力を失い、脚力を失い、体力を失います。
しかも、それが速度を加えていきます。
しかし、それがさびしいと嘆いておれば、ますます、孤独を深めるばかりです。
まわりに、愛情を注ぎましょう。注いでも注いでも、なくなるものではありません。
それが、心というものの不思議なところです。
ずいぶん、力は弱くなりましたが、まだ、できることがあります。
私自身考えてみても、声も充分出なくなりましたが、まだ、書くことはできます。
だから、手紙をもらえば、返事を書くことができます。手紙を投函に出かけることも、まだ、できます。
テクテク、郵便箱のあるところまで歩いていると、すいせんの蕾が見つかったり、梅の蕾が、見つかったりします。
木の葉のすべてを失いながら、じっと、厳冬を耐えている榎も、榎のことばで、語りかけてくれます。
雪の下から、南天の赤い実が、呼びかけてくれます。
若いときには、気のつかなかった、木々の声が聞こえてきます。
郵便屋さんが、手紙の返事の返事を届けてくれたりします。
孫が登校するのを見送りに出ていると、振り返っては、何べんも、手を振ってくれます。
心は、返ってくるものだと、思われてきます。
「老」もいいものだなとさえ、思われてきます。