正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

生きているものは光っている
みんなそれぞれの光をいただいて

 私は、教師になってからもなかなか子どもという奴は、かわいい奴だと思えません

でした。「かわいい」と「憎い」のどちらに近いかというと「憎い」方に近い、そう

いう私でした。一番適切なことばは何だろうかと考えてみると「ずいぶんやっかいな

奴だ」ということになるような気がしたものです。子どもが「やっかいだ」というの

は、子どもが生きているからである、生きているからこちらの思うようにはなってく

れないのであって、それはたいへん結構なことであると分からせてもらったのは、ず

っと後のことでした。

 生きているものは、みんな伸びたがっているし、花をつけたがっているし、実を結

びたがっていると分からせてもらったのは、またその後のことでした。

 そして、生きているのではなくて、どうやら生かされているようだぞ、と分からせ

てもらったのは、さらに後のことでした。どす黒いいやな荷物を、子どものくせにす

でにいくつもいくつも背負っているけれども、それなりに光を求め、うるおいを求め、

安らぎを求めずにはおれないように、生かされているようだぞと分からせてもらった

のです。

 生きているものは、光っている。

 どの子も子どもは星。みんなそれぞれが、それぞれの光をいただいてまばたきしている。

拝まれ ゆるされ
生かされている私

 お地蔵様にあいさつしようとしたとき、ハッとした。お地蔵様は私が手を合わせる

よりさきに、私に手を合わせていらっしゃる。拝むものだけを拝まれているのではない。

 背いている真っ最中も抱かれていた。

 仏さまは、私の向こうにではなく、私の背後にあった。

 私のような者も、拝まれ、祈られ、赦され、生かされている。

 幼い時からずっとずっと、こういう私によりそって、はらたきづめにはたらいて

くださったはたらき、願いがあった。

 大人にも、子どもにも、私たち一人ひとりにかけられている大いなるものの願いがある。

 生きるための一切の努力も投げ捨てて、眠りこけていた私であったのに、目が覚めて

みたら生きていた。いや、生かされていた。

 いつどこで、どんな大暴れをやり、自他を破綻に追い込んでしまうかもわからない

恐ろしいものを潜めている川にそって、岸がつくられた。私にそって本願がある。

 私だけでなく、親子ともども大いなるいのちに、願われ、祈られ、赦され、生かされている。

 どんな荒れ狂う川の水も、摂(おさ)めとっていく海のように必ず摂取される世界があった。

その世界のどまん中に、私は生かされていた。背いているときも、誘っているときも

「み手のまん中」であった。

 気がついても、気がつかなくても、大いなる親のひざの上にいる。

 どこへいっても、何をしているときも、わすれているときも、私を支えてくれてい

るものがある。

 自分を包んでいる大きな愛、願われているしあわせの思い、そういうものが、苦難

をのり越える力になってきた。

梅雨入り

関東地方も今週いよいよ梅雨入りしました

 

この時期は

暑かったり、涼しかったり

 

皆さまどうぞご自愛のうえお過ごしください

 

 

川崎正楽寺 境内の紫陽花も小ぶりながらキレイに咲きました

 

 

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心と心のふれあいを
粗末にしないで

 一昨年、春の遠足で、私は五年生の子どもについていきました。妙見山という山の

麓の日光院という古いお寺の境内でお昼にさせてもらったのですが、子どもたちが弁当

の包みをほどいたのを見てまわりまわりながら、私は悲しい思いにとりつかれてしまいました。

あちらにもこちらにも、町のおすし屋さんで買った巻ずしを持たせてもらっている子がいるのです。

 子どもたちは毎日、学校の給食をたべているのです。遠足の弁当くらい、いくら忙しくても

めんどうでも、おかあさんが心をこめてつくってやってほしいなと思いました。

間もなく、六年生の修学旅行が行われましたが、旅行の計画をみると「一食弁当持参」

ということになっていました。そこで私は、おかあさんたちに集まってもらい、おねがいしました。

「今度の修学旅行の弁当、もう巻ずしはやめにしてください。おかあさんたちが忙しいのは

よーく知っています。でも、子どもにとっては一生涯の思い出になるたいせつな修学旅行です。

いつもより早く起きてご飯をたいて、しっかり性根をいれて、ギューッと握ったおにぎり

を持たせてください。そして、忙しいのはよーく知っているつもりですが、そのおにぎりのひとつひとつに、

どんな心をこめてくださったか、それを手紙に書いてつけておいてください」

と頼んだのです。

 さて、塚口の郡是の工場でお昼にさせてもらったのですが、子どもたちが弁当の包みを

ほどいてみますと、みんな大きなおにぎりです。私たちも、もちろんおにぎりです。

子どもたちのおにぎりには、おかあさんの手紙がついてます。ふだんはやんちゃをやって

仕方のない六年生の男の子が、そのおかあさんの手紙を、ジーッと涙をにじませながら

読んでいます。私の隣には森本雄二君という子がいましたが、やはり涙をにじませながら

手紙を読んでいます。もうほかのこどもたちがおにぎりにかぶりついても、

まだ一生けんめい手紙を読んでいます。森本君が読み終わった頃には、もうみんな

たべていましたが、別にあわてるでもなく、ていねいにその手紙を折りたたむと、

おまもりのようにたいせつそうに、自分の胸のポケットに納めました。

 子どもたちはみんな、自分の心にふれてくるものを求めています。心と心、いのち

といのちのふれあいを、粗末にしているのが私たちではないでしょうか。

母の日

いつもお世話になっているUさんが

坊守に母の日のカーネーションの花束を

プレゼントしてくださいました。

 

お心遣いに心より感謝です。

 

Uさん ありがとうございます^^

 

 

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