きょうは 十月三日
病院の窓の外は 光いっぱい
若いお父さんが
よちよち歩きの子どもの手をひいて
明けたばかりの 朝の
円山川の堤防を歩いている
一日のはじまりの
この爽快な朝の味を
ぜひ愛児にもという父親の愛情であろうか
あの子の お母さんも
きっと
家中の窓をみんなあけて
新しい空気を入れながら
朝の食事の用意をしているのだろう
光いっぱいの朝
わたしも やがて
光いっぱいの世界に帰らせていただける
きのうの残りの糸も切っていただく
腹の管も ぬいていただく
いのちをいただいて
やがて
光いっぱいの世界に
帰らせていただく。
「生きるということは
長さの問題ではないのではないですか」
と
炎天の葉陰の
沙羅双樹
たった一日のいのちを
いかにも 静かに
咲いてみせてくれている
清楚
そのもののように
きのうは
あんなに清楚に咲いていた
沙羅双樹
けさは
地におちてしまっている
わたしは
きょうも 朝を迎えさせてもらった
申しわけないような
わたしのままで・・・・。
じゃがいもを掘る
数しれない小蟻たちが
びっくりして右往左往している
巣をこわされたのだ
みみずが
はねでる
闇の中をけんめいに生きていたみみずが・・・
もぐらのトンネルから
巣が でてくる
生きるということは
いろんな生きものたちに
ご迷惑をかけるということ
ごめんなさい。
小学一年生の浦島君は、おじさん、おはさんの家から学校に通っています。
お父さんは赤ん坊のとき、お母さんは、一年生になる前の年の十二月に亡くなってしまわれたのです。
浦島君は、学校に行くとき、おじさん、おばさんだけでなく、お仏壇に向かっても
「いってまいります」のご挨拶をします。
この浦島君が、学校で一番つらい気持ちになるのは、先生が、「お父さん」「お母さん」
の話をなさるときです。友だちは、みんな、お父さんもお母さんもおられるのに・・・
と思うと、やりきれない気持ちになります。
でも、そういうとき、いつも浦島君はハッとします。ミイ坊ちゃんやヨッちゃん
のお父さん、お母さんよりも、もっともっといいお父さん、お母さんが、いつでも、
どこでも、見ていてくださることに気付くのです。というよりは、お父さん、お母さんが、
気付かせてくださる気がしてくるのです。すると、やりきれない気持ちなんか、
ふっとんでしまって、ぐんぐん、元気が湧いてくるのです。
お念仏は、真実の親のお呼び声であり、私を、ほんとうの私に、呼び戻してくださる復元力です。
私たちは、うっかりしていると、すばらしい尊いものを泣き言のタネにしてしまいがちです。
よくよく考えてみると、ほんとうは、しあわせには小さいのはひとつもないのではないでしょうか。
大きいのばっかり
しあわせには
小さいのはない
大きいのばっかり
ちょっと見ると小さく見えるのも
ほんとうは
わたしには過ぎた
大きいのばっかり。
こんな思いがしてきます。自分のねうちをよくよく見ると、まわり中にご厄介ばかり
かけている私には過ぎたしあわせばかりという思いがしてくるのです。
私は、小さいノートを持ち歩いておりまして、よろこびが見つかると、それを
書きとめておくように努めているのですが、うっかりしていると見すごしてしまい
そうな小さく見えるよろこびが、みんな、すばらしい大きいしあわせにつながっている
ことに気づかせていただくのです。若い頃にはうっかりしていたことの中に、
こんな大切なしあわせがあったということを驚くとともに、こういうしあわせにであわせて
いただけるのは、年とったおかげさまかな、と、よろこばせていただくのです。