小学一年生の浦島君は、おじさん、おはさんの家から学校に通っています。
お父さんは赤ん坊のとき、お母さんは、一年生になる前の年の十二月に亡くなってしまわれたのです。
浦島君は、学校に行くとき、おじさん、おばさんだけでなく、お仏壇に向かっても
「いってまいります」のご挨拶をします。
この浦島君が、学校で一番つらい気持ちになるのは、先生が、「お父さん」「お母さん」
の話をなさるときです。友だちは、みんな、お父さんもお母さんもおられるのに・・・
と思うと、やりきれない気持ちになります。
でも、そういうとき、いつも浦島君はハッとします。ミイ坊ちゃんやヨッちゃん
のお父さん、お母さんよりも、もっともっといいお父さん、お母さんが、いつでも、
どこでも、見ていてくださることに気付くのです。というよりは、お父さん、お母さんが、
気付かせてくださる気がしてくるのです。すると、やりきれない気持ちなんか、
ふっとんでしまって、ぐんぐん、元気が湧いてくるのです。
お念仏は、真実の親のお呼び声であり、私を、ほんとうの私に、呼び戻してくださる復元力です。
私たちは、うっかりしていると、すばらしい尊いものを泣き言のタネにしてしまいがちです。
よくよく考えてみると、ほんとうは、しあわせには小さいのはひとつもないのではないでしょうか。
大きいのばっかり
しあわせには
小さいのはない
大きいのばっかり
ちょっと見ると小さく見えるのも
ほんとうは
わたしには過ぎた
大きいのばっかり。
こんな思いがしてきます。自分のねうちをよくよく見ると、まわり中にご厄介ばかり
かけている私には過ぎたしあわせばかりという思いがしてくるのです。
私は、小さいノートを持ち歩いておりまして、よろこびが見つかると、それを
書きとめておくように努めているのですが、うっかりしていると見すごしてしまい
そうな小さく見えるよろこびが、みんな、すばらしい大きいしあわせにつながっている
ことに気づかせていただくのです。若い頃にはうっかりしていたことの中に、
こんな大切なしあわせがあったということを驚くとともに、こういうしあわせにであわせて
いただけるのは、年とったおかげさまかな、と、よろこばせていただくのです。
今年も皆様に新年のご挨拶をさせていただきます事、本当に嬉しい限りです。
今年はいよいよ東京オリンピックが開催されます。
住職自身、初めて自国で開催されるオリンピックを迎えますので、
実際に試合会場で応援することは出来ないながらも、とても楽しみに開催を待ち望んでおります。
その一方で、先代住職が生前、呟いていた言葉を思い出します。
「東京オリンピック見たいなぁ。見られるまで頑張れるかなぁ。」という言葉を。
これまでも何度も申し上げておりますとおり、私たちの生命は、いつ、どこで、どうなるか分からない、
そのようなご縁をいただいております。
何の保証もない生命をいただいている中で、滅多にない機会に恵まれるということは、
稀有なことであり、どれほどに尊い時間をいただいているのかと、私たちは気付かなくてはなりません。
普段から、そのことに中々気付けない私たちに、絶えず、伝え続けてくださっているのが、
仏様であり、先にお浄土へ還られた大切な方々です。
今年も大切なことを伝え続けてくださる方々へ、感謝のお念仏を声に出して、ご一緒にお称え致しましょう。

子どもは、ただのいのちを生きているのではありません。人間のいのちを生きて
いるのです。感じたり、思ったり、考えたり、意志して行動したり・・・という人間
のいのちを生きているのです。相手が子どもだからといってバカにすることは許されません。
幼い子どもでも、すばらしいいい子の芽をいっぱいもっているのです。
おとなが、おとなの思いあがりを捨てて、拝む心で接するとき、子どものいのちは、
おのずから、光りながら育ってくれるのです。
「この子さえいてくれなければ・・・」と考えたこともある子どもを「この子がい
てくれるおかげで・・・」と位置づけたときから教育は始まる。
幼いことものことばに耳を傾けよう。そこには、私たちの心の帰着点である心の
ふるさとがある。
「ふるさと」そこから出てきた私。「ふるさと」それは私の還っていくところ。
子どもを導かなければならない私が、子どもに導かれて、ここまで来させてもらったのです。