正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

それぞれにいただいたいのち

まだまだ蒸し暑い日は続きますが

朝晩の風は秋らしくなってきました。

 

この頃になると

夏の象徴の1つとも言える蝉たちが

次々といのちを終えていく姿を目の当たりにします。

 

それまでは元気に飛び

鳴いていたその姿も

必死に飛ぼうと壁に何度も体当たりをして

ついには飛べなくなり

地面を這って歩いたり

ひっくり返って足をジタバタさせたりして

ついにはそのいのちを終えていきます。

 

私たちは

どんなにその姿を

「かわいそう」

と、思っても助けてあげることも

代わってあげることも出来ません。

 

それは、私たちも人間も同様です。

 

どんなに代わってあげたいと思うことがあっても

どんなに代わってほしいと思うことがあっても

私たちのいのちは

そのいのちをいただいた者が全てを引き受けて生きるしかないのです。

 

それぞれがそれぞにいただいた尊いいのち

粗雑にすることのないように

大切に歩んで参りましょう。

 

 

 

 

自然の恵み

ご門徒さんからお譲りいただいた時には
1メートルあるかないかだった桃の木も
今では見上げるほどの大きさに^^;

小粒ではありますが、近年は桃の収穫が出来ます

今年はジャムにしたり桃漬けにしたり

自然の恵みをいただきます^_^

 

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幸せのどまん中にいるのに
幸せが見えない

 親と子、夫婦がそろって無事に一日をすごすことができ、六百の子どもの上にも、

二十四の教室の上にも、建物の上にも、事がなく一日が暮れたということ、それが

どんなに、ただごとでないことであるかを、痛感させてもらうこの頃です。

大きい人と小さい人がある
体のことではない 生き方のことだ

 大きい人と小さい人とがある

 体のことではない

 生き方のことだ

 梅田の賢さんはわたしとおなじ明治四十五年の生まれだが

 毎日 山仕事にいっておられる

 「六千円貰える仕事なら

 せめて七千円分は働かせて貰わねば…」

 というのが賢さんの信条だという

 そういえば

 うちの法座のときにも

 いつもいちばん早く参って

 おしまいは

 ざぶとんのかたづけから灰皿のかたづけまでして 帰っていかれる

 大きい世界を生きておられる賢さん

 自分のことさえしかねている 小さい私

 この間から

 無人の西川の庭木をきれいに剪定してあげていてくださるのは 武知先生

 どがいしょなしばかりいるうちの栗園の下草を

 いつの間にかきれいに刈っていてくださっているのもどうやら 武知先生

 大きい世界を生きておられる

 武知先生

 自分のことさえしかねている

 小さい私

 家でも わたしが

 いちばん小さいのではないか

 「無理をしないでください」「休んでください」と

 心にかけてもらうその何十分の一

 老妻のことを私は心にかけているだろうか

 パンツの洗濯から何から何までして貰う

 その何十分の一を私は老妻にしているだろうか

 ひょっとすると孫よりも小さい世界を生きている私

 小さい私

 はずかしい私。

生きているつもりでいたら
生かされていた私

 「目」があって、それが、どんな仕組みになっているのか、何でも見せてくださるのです。

「耳」があって、どういう仕組みになっているのか、何でも、聞かせてくださっているのです。

鼻に穴があいていて、呼吸がはたらきづめにはたらいてくださっているのです。

この呼吸がとまったら、忽ちのうちに死んでしまわなければならない呼吸です。

いのちにかかわる呼吸です。そのいのちにかかわる呼吸を、その主人公である私は、忘れっ放しなのです。

その忘れっ放しの私のために、夜も昼も、土曜も日曜も、盆も正月も、一瞬の休暇もとらず、

はたらきづめにはたらいていてくれるのです。

「口」があり、「口」には「歯」があり、「舌」があり、食べものを嚙みこなすはたらきをしていてくれるのです。

食べ物が「胃」に入り「腸」に進み、血にし、肉にし、骨にし、はたらきのエネルギーに変えていくのです。

胸の中では、「心臓」が、これも年中無休ではたらいてくれているのです。

「生きている」つもりでいたら、何もかも「生きさせてもらっていた」のです。

仏さまは、私の中で、私といっしょに、私のために、忘れっ放し、逆きっ放しの私のために、

生きてはたらいていてくださっていたのです。

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