正楽寺日誌 つれづれなるままに 正楽寺日誌 つれづれなるままに

生きているものを
存分に伸ばしてくれる光と慈雨

 春の光にあい、そして慈雨(いつくしみの雨)にあうと、木々はもうじっとして

おれないというように、鮮やかな芽をふき、ぐんぐん伸びていきます。生きている

ものは、みんな伸びたくてたまらないのです。存分に伸ばしてくれる光と慈雨を待

っているのです。お母さん方、子どものほめ方、叱り方、そんなわざとらしいこと

に心を奪われてしまわないで、お子さんの光になってください。慈雨になってくだ

さい。そして、そのためにも、お母さん方ご自身が光を求めてください。

 私の母は、私が小学一年生になったばかりの五月に亡くなってしまいました。

あれから六十年もたってしまったのですが、目をとじると、今も母の美しい微笑が

浮かんできます。父が不在のときはいつも母が仏前に座してお勤めをしました。私は

その母にくっついて座わり、母の口まねをして、一生懸命無茶苦茶のお正信偈を

よむのでしたが、そのとき見上げる嬉しそうな輝くような母のほほえみ、それが今も

私の中に生きているのです。

 私は、青年時代、仏さまを疑い、逆き、謗るような思想のとりこになったことが

ありました。ところが、そういう私をも生かしづめに生かしていてくださる大きな

慈光に頭があがらなくなって仏前に額づいてしまいました。そして、頭をあげたとき、

阿弥陀さまのお口もとに母のほほえみを拝んだ気がしたのを忘れることができません。

私にその日がくるのを母はきっと待ってくれていたのでしょう。草木が光に向かって

伸びるように、子どもはお母さんの喜びの方向に伸びるのです。

お母さん方、どうか、いい子の芽が見えたときには、ほめるより喜んでください。

 そして、その反対のときには、叱るより悲しんでください。叱られてビクともし

ない子も、お母さんの悲しそうな姿にふれると、シュンとなってしまいます。

 やはり、私の母の思い出です。私が妹のおやつをとりあげたというようなことだ

ったと思うのですが、悲しそうな顔をしていた母が決心したように私の襟首をつか

んで土蔵の前へ連れていきました。そして襟首をつかんでぶらさげ私をゆさぶりま

した。今この子が大暴れに暴れて逃げてくれたら土蔵に入れなくて済むのに…と、

きっと心の中で泣いていたのだと思います。事実、私自身、今大暴れに暴れてやっ

たら、お母ちゃんの力ぐらいふりきにって逃げることができるんだがな……と思いま

した。ところが、せっかく土蔵に入れようとしているのに逃げてはすまんな……と

いう気がしてしまったのです。「すまん」という思いは、人間の心の一番底のとこ

ろにいただいている思いだと思うのですが、それが、お母さんの悲しみの表情にふ

れると、おのずからこみあげてきて「人間らしさ」の基本になって育ってくれるの

です。

 

二度とない人生
二度とない今日 ただ今

 私が、東京に講演に出かけた朝でした。

 新聞に、T大学経済学部三回生の学生が、テレビがうるさい、子どもがうるさいと、

下宿のご主人をはじめ、近所の奥さん方五人を刺殺した事件が報道されていました。

T大学の経済学部の学生というのですから、頭脳は相当優秀なのでしょうに、

まったく残念なことをしてしまったものです。

 人生を仮に八十年と考えて、これを、一日二十四時間にあてはめてみますと、

四十歳が正午、その半分の二十歳は午前六時ということになります。

 この学生は、午前六時を少し過ぎたあたりを生きているのです。ほんとうの人生は、

これから始まるのです。就職、結婚等々、大切なことが、これから次々にやってくるのですが、

その度に妨げになるのがこの事件でしょう。

 これは、両親といえども、代わって背負うことはできません。この学生が、生涯、背負い続けねばならないのです。

この学生は、自分で、自分のただ一度の人生を台なしにしてしまったのです。これでは、いくら頭脳が優秀でも賢いとは申せません。

 仏教では、こういうのを「痴(おろか)」と申します。「知」が病んでしまっているのです。

いま、日本のお母さん方は、子どもを賢い子にしたいと、一生懸命になっていてくださいます。

ありがたいことではあるのですが、どうかどうか、「痴」につながるようなおろかな賢さだけば、

育てないようにお願いしたいものです。

 さて、この学生は、テレビや子どもの騒音に腹を立てたのですが、この怒り、腹立ちのことを、

仏教では「瞋(いかり)」と申します。

この学生は、この「瞋」を制御する力を育てられていなかったために、まったく取り返しのつかない罪を犯してしまったのです。

 人間の心の中には「自分の都合がよいように気ままに生きタイ」「らくがしタイ」「おいしいものを食べタイ」

「もっと寝ておりタイ」「遊んで暮らしタイ」というような「タイ」が無数に住んでいます。

 「タイ」の中には「もっと賢くなりタイ」「健康になりタイ」「強い心を持ちタイ」「優しくなりタイ」というような、

値うちのある「タイ」もあるのですが、これは、よほど努力しないと成長してくれません。

 ところが、はじめに申しましたような「タイ」は、放っておいても、知らぬ間に大きくなり、

肝心の主人公の人生まで台なしにしてしまいます。

 この「タイ」のことを、仏教では「貪(むさぼり)」と申します。先述の学生は「他人にじゃまされないように生きタイ」

という自分中心の「タイ」が、それを妨げるものへの「瞋」と結びついて「じゃまする者たちをやっつけてやりタイ」

となり、取り返しのつかない「おろかさ(痴)」を発揮してしまったのです。

「あたりまえ」をみんな
なぜ喜ばないのでしょう

 隣の町のお寺の門前の掲示板に、

 「目をあけて眠っている人の目を覚ますのは、なかなかむずかしい」

と書いてありました。

 「目をあけて眠っている人」

というのは私のことではないかと思うのといっしょに、悪性腫瘍のため亡くなられた

若き医師、井村和清先生が、飛鳥ちゃんというお子さんと、まだ奥さまのお腹の

中にいらっしゃるお子さんのために書き遺された『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社刊)

というご本のことを思い出しました。

 その中に「あたりまえ」という、井村先生が亡くなられる二十日前に書かれた詩があります。

 

 あたりまえ

  あたりまえ

  こんなすばらしことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう

  あたりまえであることを

  お父さんがいる

  お母さんがいる

  手が二本あって、足が二本ある

  行きたいところへ自分で歩いてゆける

  手をのばせばなんでもとれる

  音がきこえて声がでる

  こんなしあわせはあるでしょうか

  しかし、だれもそれをよろこばない

  あたりまえだ、と笑ってすます

  食事がたべられる

  夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる

  空気を胸いっぱいすえる

  笑える、泣ける、叫ぶこともできる

  走りまわれる

  みんなあたりまえのこと

  こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない

  そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ

  なぜでしょう あたりまえ

 

 お寺の前で、私は、井村先生の詩と共に、今は亡き塩尻公明先生のおことばを

思い出しました。

「人間は、無くてもがまんできることの中に幸せを追い求め、それがなくては

しあわせなど成り立ちようのない大切なことを粗末に考えているようだ。例えば、

子どもが優等生で、有名中学に入学するというようなことの中にしあわせを追い求め

るあまり、子どもが健康でいてくれるというような、それなしにはしあわせなど成り

立ちようのない大切なことを、粗末に考えているのではないか」

 という意味のおことばでした。

 「それなくしては、しあわせなど成り立ちようのない大切なこと」「あたりまえ」

のすばらしさの見えない人、そういう人を「目をあけて眠っている人」というのだ

と思いました。

寒さの中であたたかさの
よろこびを知らせてもらう

 雨の日には 雨の日の

 悲しみの日には 悲しみの日の 

 かけがえのない大切な 人生がある

 暑さの中で

 涼しさの味をしらせてもらう

 寒さの中で

 あたたかさのよろこびをしらせてもらう

 しあわせには 

 小さいのはない 

 大きいのばっかり

 ちょっとみると小さく見えるのも ほんとうは私にはすぎた

 大きいのばっかり

 

春の訪れ

 

 

 

川崎の正楽寺

 

今年初めての梅の花

 

キレイに咲きました^^

 

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