旧昨年中は皆様に大変お世話になりました。
お陰様で寺族一同、健康に新年を迎えさせて頂きました。
昨年六月には先代住職がお浄土へ還らせて頂きました。
その際に、多くの方にお心寄せいただいたことは本当に有難く、
ただただ感謝申し上げるしかないと思ったことです。
改めてお礼申し上げます。
継職して住職という立場になり、はや半年が過ぎました。
この半年で強く強く感じたことは、先代がどれだけ深い想いの中で、
阿弥陀様のみ教えをご門徒の皆様にお伝えしていこうかと努力していたこと、
この正楽寺を護り抜いてきたことか、ということでした。
浄土真宗の寺院は「聞法の道場」と言われておりますが、
一人でも多くの方と阿弥陀様のみ教えを喜び、分かち合うために、
どれだけの想いで正楽寺という「道場」を護り続けてきてくれたのかと考えると、
先代にもまた、ただただ感謝するしかない日々です。
「孝行したい時分に親はなし」という諺がありますが、正にその通り、と言いますか、
私には一生をかけても恩返しできないくらい、大切なものを沢山残してくれました。
まず、癌という病気を通して、私たち家族に「家族の絆を深める」というプレゼントをくれました。
一緒にお寺のことをさせて頂くようになってからは、
ご門徒の皆様とのご縁、僧侶としての生き方をその姿勢で見せてくれました。
そして今、お浄土へ還らせて頂き、仏として生まれさせて頂いたであろう先代は、
私に生命についての尊さ、また不安なく救われていく世界がある阿弥陀様のみ教えを
皆様へ伝えていく責務を担うこと、それが住職としての覚悟であることを、
声なき声で私に伝えてくれています。
仏教とは目に見えないものですので、有形物を手に入れるように分かりやすいものではありません。
そのため「仏様に手を合わせよう」とか「仏様のお話を聞いてみよう」という気持ちに
向かない方もいらっしゃるかも知れません。
ですが、今ある生命に感謝して手を合わせ、
我が生命の在り方についてお示し下さっている阿弥陀様のみ教えを聞かせていただくことによって
心のゆとりが持て、心を豊かにさせてもらう事ができます。
それが「仏の教え=仏教」です。
私自身、まだまだ慣れないことも多く、皆様には何かとご迷惑をお掛けすることと思います。
ですが、一人でも多くの方と、この浄土真宗のみ教えの喜びを分かち合いたい、
そのために精一杯勤めさせていただく所存です。
今年も共々にお念仏の日暮しをさせていただきましょう。
合掌
住職 佐々木 理絵
わたしの学校の竹箒部屋の竹箒は、今日で二百日あまり、倒れたり、傾けたり、ひっくりかえったりすることなく整列していてくれる。
百三十日目くらいだったろうか、朝礼のとき、わたしは一メートルばかりの大きな温度計をもって台上に立った。
「けさの温度は何度くらいだろうか」というようなところから温度計に注目させ、毎日寒い日がつづくから、温度が低いことを話し、
「でもね、みんなの中には、誰かしらんけれど、温度計のてっぺんまで赤い棒が伸びるほど、心の温い子がいるらしいんだよ。
校長先生は毎晩、学校を見廻りに学校にやってくるんだけど、どんな夜半でも、竹箒がきちんと行儀よく並んでいるの。今日で百三十日くらいだと思うんだけど、倒れていた日は一回もないんだよ。竹箒をかわいがってやってくれている心のあたたかい人は誰なの?手をあげてみてください」と言った。一人も挙手する者がなかった。
「誰かしらんけれど、とっても心のあたたかい人がいてくれることが、先生はうれしくてならないんです。みんな、人を困らせたり、物をいじめたりなんかしない、心のあたたかい子になってくださいね」
と言いながら、わたしは温度計をかかえて台を降りた。
それから、少し日が立って、四年生の男の子が箒をまもるためにがんばってくれていることがわかってきた。わたしが、いつか
「ほんものとにせものは、見えないところのあり方でわかる。それだのに、にせものに限って見えるところばかりを気にして、飾り、ますますほんとうのにせものになっていく」と話して以来、人に見えないところでいいことをがんばるようになったのだ、ということであった。
私の若い頃から、ずっと不断にお育てをいただいてきた森信三先生は、ご飯をおあがりになるにも、
ご飯とお副えものを一緒に口に入れては、食物に申しわけないとおっしゃり、ご飯をよくよく味わい、それを食道に送ってから、
お副えものを口にされ、お副えもののいのちと味を、充分お味わいになってから、ご飯を口になさると、承ってきました。
いつか、お伺いしたとき、出石の名物の餅を持参したことがありましたが、
「これほどの餅をつくるところが出石にありますか」
と、おっしゃり、何気なく口にしていたことが、はずかしくなったことがありました。
毎日、食物をいただかない日なしに、七十七年も生きさせていただいてきた私ですが、食べものたちに対しても、ずいぶん、
申しわけない自分であることに気づかされます。食べ物をつくつた方々に対しても、ずいぶん、申しわけない「この身」であることに気づかされます。
せめてわたしも……
数えきれないほどのお米の一粒々々が一粒々々のかけがいのないいのちを ひっさげて
いま この茶碗の中に わたしのために
怠けているわたしの胃袋に目を覚まさせるために山椒が山椒のいのちをひっさげて わたしのために
梅干しもその横に わたしのために……
白菜の漬物が 白菜のいのちをひっさげ万点の味をもって わたしのために……。
もったいなさすぎる もったいなさすぎる
東井先生は27歳のとき、お父さんを亡くされました。
7年間も病床にふせっておられたお父さんの様子を見るため、ある日、東井先生は豊岡から帰宅されました。
思いがけない日の、思いがけない時刻(夜半)の帰宅に、たいへん喜ばれたお父さんは、東井先生にこう言われたそうです。
「生きておれば、何の役にも立たんわしを、おまえがこうして案じてくれる。
いま、息が絶えても、大きな大きなお慈悲のどまんなか。
世界中に、ぎょうさん人間は住んでいるが、わしほどのしあわせ者が、ほかにあろうかい」
この言葉は、次第に小さくなって消えていったといいます。
63歳のご往生でした。
東井先生のお父さんは、たいへんありがたい念仏者でした。
いつも、阿弥陀さまのお救いと、阿弥陀さまのみ手のどまんなかに生かせていただいていることを、よろこばれていたそうです。
このお父さんの最後の言葉を、たまたま家に帰って思いがけなく聞かれた東井先生は、のちにこうふり返っておられます。
「若い私は、その事実を、父が『人間に生まれさせていただいた以上、<生きても、死んでも、しあわせのどまんなか>という世界に到達できなかったら、人間に生まれさせていただいたねうちはないのだよ』と教えるために、私を呼び寄せてくれたのだと思いました」
また、東井先生の晩年の著書では、お父さんのことを、このようにも味わっておられます。
「ひょっとすると、あの父は、如来さまが、私のためにお遣わしくださった、如来さまのお使いであったかも知れないと思うのです。
(中略)
いつ壊れても不思議でない体です。
『終わりの時』は目の前にあるのです。
でも、妹も申します通り、
『いつ壊れてもみ手のまんなか』です。
終わってから『み手のまんなか』に拾っていただくのなら、『ひょっとして、拾っていただけなかったら…』という不安もあるでしょうが、現在ただ今、既に『み手のまんなか』なのですから、死にざまなどかかわりなく、『いつ壊れてもみ手のどまんなか』なのです。
この安らぎの世界に目覚めさせてくれたのは父です。
父はやっぱり、まちがいなく、如来さまのお使いだったにちがいありません」
こちらが意識するしないにかかわらず、阿弥陀如来さまの、お救いのみ手のどまんなかで、生かせていただいているという、東井先生の念仏者としての深い味わいが、そこにあります。
私たちにとって、東井先生は、如来さまのお使いだったのでした。
子どもや若者の自殺が続いています。
過日の新聞は、その日、日本各地で6人の中学生・高校生が自殺したことを報道しました。
九条武子夫人のお歌が思い出されます。
見ずや君 あすは散りなん花だにも
力のかぎり ひとときを 咲く
草も木も、虫も魚も、みんな、力いっぱい生きています。
T君も、ある精薄の施設で、短い生涯を、見事に生きぬきました。
彼は、精薄・高血圧・左半身不随・てんかん・心臓の構造異常による度々の激痛の中を生きぬいたのです。
死後発見された彼のノートには、
「母がたずねてきた。
やせてしもて、ほそい体になっていた。
苦労したんやな、ぼくのために。
母ちゃん、許してや。
ぼくがバカやってんな。
許してや、母ちゃん」
と、書き遺されていたといいます。
「ぼくのために」やせてしまったお母さんを憶(おも)うと、どんな病苦にも、激痛にも耐えて生きずにはおれなかったのです。
「五劫思惟(ごこうしゆい)」のご苦労と「願い」の中を生きさせていただく私たちです。
粗末に生きては、申しわけありません。
このことを忘れ、「生きる」ということを粗末にしている私たちが子どもや若者たちを、簡単に、自殺に追いやっているのではないでしょうか。
※「五劫思惟(ごこうしゆい)」とは、阿弥陀さまが私たちを救うために、想像を絶する時間をかけて考えぬかれたことをさします。