私は、今、長女が3歳の秋、お医者様から「お気の毒ですが、この病気は100人中99人は助からぬといわれているものです。もう今夜一晩よう請け合いません」といわれた晩のことを思い出しております。
脈を握っていると脈がわからなくなってしまいます。いよいよ別れのときかと思っていると、ピクピクッと動いてくれます。やれやれと思う間もなく脈が消えています。体中から血の引いていく思いで、幼い子どもの脈を握りしめていると、かすかに脈が戻ってくれるのです。このようにして、夜半12時を知らせる柱時計の音を聞いた感激。「ああ、とうとうきょう1日、親と子が共に生きさせていただくことができた。でも、今から始まる新しいきょうは?」と思ったあの思い。「ああ、きょうも親子で生きさせていただくことができた」「ああ、きょうも共に生きさせていただけた」というよろこびを重ねて、とうとう新しい年を迎えさせていただくことができた日の感激。
この度、正楽寺のホームページをリニューアルしました。
このホームページを通して、色々なことを発信できればと思いますので
改めて宜しくお願い致します。
滋賀県から、密教の修行をなさっているという若い方が、わざわざ、私たちのために、来てくださいました。その方は、さすがに、私たちが直面しているきびしい事実を「仏罰」だとは言われませんでした。どんな災難も苦しみも、みんな私たちの側に、そういうことにであわねばならない「因」と「縁」とがあるからです、とおっしゃっていましたので、私も、大きくうなずかせていただきました。 ところが、「私はまだその力がありませんが、私の師匠は、多くの皆さんの災難の『因』や『縁』を確かめ、それを正すことによって、多くの方を救っていらっしゃいます。あなたも一度、師匠に、災難の『因』や『縁』をみてもらわれてはどうでしょうか」 と、おっしゃるのです。私は申しました。 「ご親切、まことにありがとうございます。仰せの通り、私どもが、こういう事実にであわなければならないのは、その『因』や『縁』が、私どもの側にあるからです。しかし、機械のどこか一部分が狂っているのであれば、『因』や『縁』を正せば、機械が正常に稼働しましょう。ところが、私どもの場合は、機械全体が、救いようのないものになっているということです。こうなりますと、『たとい罪業は深重なりとも、必ず救う』と呼びかけてくださる阿弥陀さまに、罪業ぐるみ、お預けする以外、他の道は、一つもございませんので・・・・・・」といって、お帰りいただいたことでした。 その後、間もなく、「近頃、大評判の名高いお坊さまが、御祈祷によって、多くの皆さんの災難を救っておいでになります。一度、御祈祷をお願いしてみられては如何ですか」 と、勧めてくださった方がありました。 「ご親切、まことにありがとうございますが、阿弥陀さまは、こちらが、一心こめてお願いしなかったら、私どものことを気にかけてくださらぬ如来さまではないのです。拝まない先から、拝まない者を、おがんでいてくださるのです。拝まないときも、おがんでいてくださるのです。祈らぬ者も、祈らぬときも、如来さまの方から、祈ってくださっているのです」 といって、帰っていただきました。
私は、学校の先生になりたかったので、学校は、師範学校を選びました。 入学してみると、全員、何かの運動部に入部せよということでしたが、私を入れてくれる部は一つもありませんでした。私があまりにも不器用すぎたからでした。行き場のない私を憐れんで、マラソン部が、やっと、私を入部を許してくれました。 毎日の日課は、姫路の城北練兵場一周(五千メートル)でした。週に一日は、市川の鉄橋まで往復(一万メートル)しました。ビリは私が毎日全部引き受けることになりました。 その一万メートルコースの途中には、女学校がありました。女学生たちの注目のなか、仲間から何百メートルも遅れ、犬にほえられながら走るのは、ほんとうにみじめでした。 そのビリを、私は、二年になっても、三年になっても、四年になっても独占しました。何年たっても、私よりのろいのは一人も入部してきてくれなかったからでした。 私は、毎日、ビリを走りながら「ウサギとカメ」の話を考えました。 カメがウサギに勝ったというが、カメはいくら努力してもウサギになれない。カメはカメだ。しかし、あの話は、値うちのあるカメは、つまらないウサギよりも、値うちが上だという話ではないか。カメはウサギにはなれないが、日本一のカメにはなれるという話ではないか。 とすると、ぼくは、ビリからは逃れることができなくても、日本一のビリにはなれるはずだ、よし、日本一のビリになってやろう、そんなことを考えながら走りました。走っているうちに、また気がつきました。ぼくがビリを独占しているせいで、ほかの部員は全員、ビリの悲しみを味わわずにすんでいる、ぼくも一つ役割を果たしていると気がついたのです。 すると、にわかに世界中が明るくなり、愉快になってきました。そして、先生になったら、走れない子、泳げない子、勉強のできない子の悲しみのわかる先生になろう。そういう子がよろこんで学校にきてくれるような先生になろうと、考え続けました。 私は、小・中・大学と、五十五年間、教師を勤めさせてもらいましたが、この願いだけは忘れなかったつもりです。
癌手術で、生まれてはじめて入院している間のことでした。毎日毎日、便所に行くのにも、押して行かなければならない、点滴棒と一緒の暮らしは、やり切れないものでした。これが、生きているということなのかなと、自問しながらの毎日でした。 そんなある晩、終わった点滴を外しに来てくれたかわいい看護師さんの、 「ご苦労さまでした。お疲れさまでした」 の、心のこもったことばは、今も忘れられません。薬局でもらうものだけが薬だと思っていた私でしたが、心身ともに甦る薬を、私は、そのかわいい看護師さんから貰った思いがしました。 考えてみると、点滴が、私にとって、決して快適なものでないことが事実ではあっても、それは、私が私のためにやってもらっているものです。私の方から「ご厄介をおかけします」と、お礼を言わなければならないはずのものです。それを、若いかわいい看護師さんが、心からねぎらってくれるのですから、全く感激しました。心身を甦らせる高貴薬をもらった思いがしました。 馴れっこになってしまっている家族の間でも、心して、「ありがとう」「すみません」「ご苦労さま」「お疲れさま」を大切にしなければ・・・・・・と、その看護師さんから教えられた気がしました。