学期末になって、子どもたちが成績通信簿をもらう頃になると、いつも思い出される作文があります。
小四 女
「おかあちゃん、ほら、つうしんぼもろてきた」といってわたすと、おかあちゃんはうけとって、だまって見ていられました。ほめてもらえるかと思っているのに、何もいわれません。それで「おかあちゃん、はやくなんとかいうて・・・・・・」 するとおかあちゃんは「たいしたことはない」 わたしは、ほめてもらえるかと思って走って帰ったのに、がっかりしてしまいました。 小五 男 通信簿をもらってみると「4」が二つもついていた。ぼくは大急ぎで帰った。 お父さんは庭先で牛のせなかをかいていた。「お父ちゃん、これみい、通信簿もらったぜ」というと、お父さんは牛のせなかをかきながら「あっちにおいとけ、あとでみる」といった。ぼくはつまらんので「ふーん」といって家の中へはいっていった。 夕はんのとき、お父さんのおぜんの上においといた。お父さんは見ていたが「なんじゃあ、『3』が四つもあるじゃないか」といった。ぼくは「4」が二つもあるのにと思った。 子どもたちは、がんばりを認めてもらいたがっているのです。いいところ、◯を見てもらいたがっているのです。でもお父さんもお母さんも、いいところ◯はなかなか見えないらしいのです。問題点、☓は見えすぎるくらい見えるらしいのですが・・・・・・。やはり期待過剰ということでしょうか。 そこで、私は、先生方に「子どもに◯をつけてやるときには、誰にでもすぐ目につくように、心をこめて、鮮やかな大きいのをつけてやってください。☓は虫めがねで見なければ見えないくらいのでいいのですよ」とおねがいしてきました。そして、親ごさんがたには「◯を見てやりましょう。◯が見つかったらうんと励ましてやってください」とおねがいしてきました。 小四 男 おとうさんは、じいっと見ていたが、 「うん、まあこれならよかろう。お父さんの四年のときより上とうじゃ」 といってくれました。ぼくはほっとして、これからは、まい日、べんきょうをわすれないようにするぞ、と、けっしんしました。
私が、若い頃読みふけった懐しい書物の中の一冊に、出隆先生の『哲学以前』があります。出隆先生は、哲学者であられるとともに、「神伝流」の水泳の達人でもあられたと聞いています。 その出隆先生が、何なかに「水泳」のことをお書きになっていました。「水は、人間を浮かせるだけの浮力をもっている。しかるに、人間が溺れるというのは、心の重みで溺れるのである。だから、溺れた人というのは、『こんな所で・・・・』と思われるほど、浅い所で溺れている。結局、水の浮力に足をとられてあわててしまい、その心の重みで溺れたのである。心を無にして、身も心も水に預ければ、自分の力を使わなくてもおのずから浮かぶ」というような内容の文章でした。 出隆先生の、「心を無にして、身も心も水の浮力に預ければ、おのずから浮かぶ」というお言葉は、親鸞聖人が「如来の本願力に乗托すれば、おのずから然らしむる自然法爾の世界を恵まれる」と教えくださっていることにも通じているように思います。またそれは、私が子どもの日、あの熱くて熱くてたまらなかったお灸の熟さが、「きばり心」を抜いたとたん、あんな快い安らぎの世界に変わったことにも、つながっている気がするのです。 私は、初め、お灸の熱さに負けまいとする「きばり心」の重みで、熱さの底に沈み、熱さの苦しみに溺れていたのです。それが「きばり心」を捨てたとたん、熟さが苦にならない世界に浮かせてもらったのです。 どなたのお作か存じませんが、「散るときが浮かぶときなり蓮の花」という句が思い出されます。「自分・・・・・・」という「我」が散ったとき、ポッカリ、安らぎの世界に浮かばせてもらうのです。水に「浮力」があるように、私に注がれている「本願力」が、沈むしかない私を、浮かせてくださるのです。
既に人生の日がとっぷり暮れてしまっている私です。この私が「人生の朝に立っているあなた」に、何としても言い遺しておきたいことは、せっかくいただいた、ただ一度の人生を「空しく人生」にしないようにしてくださいということです。 七十年生きても、百年生きても、正味が空しければ、何のねうちもありません。人生は、長く生きるかではなくて、どう生きさせてもらうかです。そう思うと、私なんか、はずかしくてなりません。そこで、いままでの人生をふりかえり、私は、近頃、次のように考えて、自分に言い聞かせています。 忘れていた 忘れていた忘れていた 牛のような 静かな 澄んだ うるおいのある目で物事を見るのでなかったら ほんとうのことはなんにも見えないということ ものほしげなキョロキョロした目 おちつきのないイライラした目 うるおいのないカサカサした目 何かに頭を縛られた偏った目でも しあわせのどまんなかにいても しあわせなんか見ることも頂くこともできないまま せっかくいただいた二度とない人生を 空しく過ごしてしまうことになるのだということを 忘れていた
近頃の子どもは、私たちの子どもの頃とは違った金銭観をもっているようです。「お金は生きて太っていくものだ。貸せば利子がつき、借りれば利子をとられる。その太り方は、何年かたてば、決してばかにならないものになる」と考え、きょうだいでも利子を取り合ってお金の貸し借りをしているといいます。 ある中学一年の女生徒は作文に「私は高校を出たらすぐ結婚する。結婚したらなるべくはやく離婚し、いしゃ料をとって貯金する」と書いたといいます。 小学生の頃から、お手伝いはもちろん、弟や妹に勉強を教えるのも、テストで百点をとるのも、みんなそれが財源になるように育てられているからでしょう。 これから厳しい世の中を生きぬいていかなければならない子どもたちです。そういうがめつさも、悪いとばかりはいえないでしょう。しかし、お金に頭を縛られてしまうと、お金を超えたところにある、人生の味やよろこびが見えなくなってしまう危険があります。生きるよろこび、感動の味わえない子どもに育ててしまっては、とり返しのつかないことになってしまいます。そのためには、まずお母さん方が、感動のある人生、こころの味を大切にするお母さんになってくださらなければなりません。 九州である女子高校生の作文をいただきました。 「母の日」 私が母の日を意識しはじめたのは、小学校四年のときでした。一週間百円の小遣いの中から五十円出して、お母さんの大好きな板チョコをプレゼントしたのがはじまりでした。あのときはきまりがわるくて、お母さんのエプロンのポケットにねじこむなり、逃げるようにしてふとんにもぐりこみました。誰かが聞いたら笑うんじゃないかしら、そんな喜びとも不安ともつかない複雑な気持ちのまま、私はいつしか深い眠りにおちていきました。 ところが、翌朝、目を覚ましてみると、私の枕もとに一枚の手紙と、板チョコの半分が銀紙に包んでおいてありました。 「ルリ子、きのうはプレゼント、どうもありがとう。お母さんね、いままで、あんなおいしいチョコレートをたべたことはなかったよ。こんなにおいしいんだもの、お母さん一人でたべるのはもったいなくて、お母さんの大好きなルリ子にも半分食べてほしくなりました。どうか、これからも、元気ですなおなよい子になってくださいね」 読んでいるうちに涙がこみあげてきて、あのときほど、お母さんの子に生まれてきたことをほこりに思ったことはありませんでした。あのときの感動は、生涯、忘れることはないでしょう。 というのです。ルリ子さんにこの感動を味わわせたのは、ただの五十円の板チョコの中に、どんな高価なチョコレートの中にもない味を感じとられた、お母さんのあり方ではないでしょうか。お母さんは、こうして、お金を超えた世界を、感動的にルリ子さんに自覚させたれたのです。
暁烏敏先生のお歌に「十億の人に十億の母あらむも我が母にまさる母ありなむや」というのがあります。 世界には、たくさんのお母さんがあります。世界一美しいお母さん、世界一賢いお母さん等々、立派なお母さんが、いっぱいいらっしゃいます。 その中で、自分のお母さんは、美しさの点でも、賢さの点でも、立派とはいえないかもしれません。しかし、「私」を愛し、「私」のしあわせを願うことにおいては、どんな立派なお母さんも及ぶものではありません。「私」に関する限り、世界でただ一人の世界一の、お母さんです。 ですから、世界中のすべての人が見捨てても、お母さんだけはわが子を見捨てません。お母さんは、仏さまのご名代ですから、どんな困った子でも、愚かな子でも、見捨てることができないのです。 福岡の少年院にお勤めの先生から、少年たちの歌をいただきました。その中に、 ふるさとの 夢みんとして 枕べに 母よりのふみ 積み上げてねる というのがあります。世の中のみんなから困られ、嫌われて、ついに少年院のお世話になっているのが、この少年でしょう。 そのわが子のために、お母さんは「積み上げる」ほどたくさん、母心を手紙にして、この少年に注いでおいでなのです。そのやるせない母心にであうと、この少年も、手紙を粗末にすることはできません。大切な宝にしているのです。そして、それを枕元に積み上げれ、お母さんの心を憶念しながら眠るのです。 われのみに わかるつたなき 母の文字 友寝たれば しみじみと読む というのがあります。自分にしか読めない下手なお母さんの字がはずかしいから、友だちが寝てから読むのでしょうか。 そんなことではありません。下手くそな文字いっぱいにあふれているお母さんの心に、誰にも邪魔されずに対面したいのです。その心が「しみじみと読む」ということばの中に、あふれているではありませんか。 子どもにとって無くてはならないお母さんというのは、美貌であってくださることよりも、髙い教養を身につけていてくださることよりも、何よりもかよりも大切なことは、仏さまのお心を心として生きてくださるお母さんということになります。 そして、そういうお母さんでないと、美しさも、教養も、子どものための光とはなってくださらないといえましょう。 私の母は、私が小学一年生になったばかりの五月に亡くなってしまいました。あれから六十年もたってしまったのですが、目をとじると、今も母の美しい微笑が浮かんできます。父が不在のときはいつも母が仏前に座してお勤めをしました。私はその母にくっついて坐わり、母の口まねをして、一生懸命無茶苦茶のお正信偈をよむのでしたが、そのとき見上げるうれしそうな輝くような母のほほえみ、それが今も私の中に生きているのです。 私は、青年時代、仏さまを疑い、逆き、謗るような思想のとりこになったことがありました。ところが、そういう私をも生かしづめに生かしていてくださる大きな慈光に頭があがらなくなって仏前に額づいてしまいました。そして、頭をあげたとき、阿弥陀さまのお口もとに母のほほえみを拝んだ気がしたのを忘れることができません。私にその日がくるのを母はきっと待ってくれていたのでしょうか。