仏事の心得仏事の心得

摂取不捨の仏様

今年六月の新聞に、令和六年石川県能登地方地震で被災された方が、能登で営まれていたお店を川崎駅付近で出店するという記事が載りました。

少しでも復興のお役に立てればと思い、何度かお店に伺い、美味しい食事をいただいたことです。

江戸時代の加賀藩士・浅加久敬が残した「能登はやさしや土までも」という言葉があります。

これは、  能登半島の人々の優しさや温かさを称賛するものです。

北陸は古くから浄土真宗の教えが根付いている所であり、阿弥陀様のお慈悲の心が行き届き、土地の人々の性質・文化にも浸透しているのではないか、と能登出身の方が教えてくださいました。

阿弥陀様はすべてのいのちを救うため、限りない光といのちの仏になろうと誓われました。

「阿弥陀」とは「無量・量ることができない」という意味です。

あらゆる世界を 照らし、私たちを救い摂ろうとしてくださる仏様です。

親鸞聖人は阿弥陀様について

 

十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)

念仏の衆生(しゅじょう)をみそなはし

摂取(せっしゅ)してすてざれば

阿弥陀となづけたてまつる

 

(数限りないすべての世界の念仏をするものを見通され、摂め取って決してお捨てに ならないので阿弥陀と申し上げる)

と、和讃として書き残されました。

どのような人であっても、追いかけ摂め取ってくださるのが、阿弥陀という仏様なのです。

 

私たちは自分一人で生きているつもりになって「私が、僕が」と「我を張る」ことばかりで周りの人たちと衝突を繰り返しています。

このような私を摂め取って捨てることのない阿弥陀様が「我」の殻に閉じこもっている私に「一時も早く目覚めよ」とよびかけ続けてくださっているのです。

そのよび声は南無阿弥陀仏の名号として私に届けられています。

親鸞聖人は、阿弥陀様のお心を大変喜ばれ、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」(ひとえに親鸞一人のためにはたらいてくださっている)と仰いました。

そして、これは私たちにとっても同様で「◯◯(貴方の名前)一人がためなりけり」なのです。

 

この度は、このような阿弥陀様を生涯かけて喜ばれた親鸞聖人の御命日法要「報恩講」です。

私たちが今、阿弥陀様のおはたらきに気付かせていただくことができたのは、親鸞聖人のおかげ、そして、聖人とご縁を結ぶきっかけとなった先立たれた方々のおかげで、すべて「おかげさま」の世界であります。

一つずつのご縁に感謝申させていただきながら、ご一緒にお参りいたしましょう。

親鸞聖人のお念仏

先代住職がはじめた、この「仏事の心得」を受け継いで、五年以上の月日が過ぎました。

仏教用語を分かりやすく説明するため、未だに試行錯誤の連続です。

いかに「何となく」「雰囲気で」しか理解していなかったと気付かされることが多々あります。

そのように振り返ってみますと、それは、阿弥陀様のおはたらきと似ているように思いました。

 

阿弥陀様のおはたらきに姿形はありません。確かに「在る」ものだけれど、形のない

ものは、私達には理解しづらいので、そのおはたらきを「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の六字とされました。

「南無阿弥陀仏」のお念仏は

「悲しいときも、嬉しい時も、いつもあなたの側に居りますよ。

そして、あなたの生命尽きる時、必ず仏の世界・お浄土に生まれさせますよ」

と、私にどこまでも寄り添い続けて下さる阿弥陀様の喚び声であります。

 

私たちは、物心ついた時には、親のことを「お父さん」「お母さん」と呼んでいました。

そこに至るまでには、何度も「お父さんですよ」「お母さんですよ」と、呼びかけ続けてくれたことでしょう。

私たちは、それを聞き続けることによって、気付けば、そのように呼んでいたのです。

それと同様に「必ず救い摂りますからね」と、願いを込めて「南無阿弥陀仏」のお念仏となり、私たちに絶えず喚びかけ続けて下さっているのです。

 

親鸞聖人は、そのようなお念仏の教えについて

「ひとへに親鸞一人がためなり(この親鸞一人をお救いくださるためであった)」(歎異抄)

と、大変喜ばれました。

 

親鸞聖人の一生は波乱万丈なものでした。

九歳の時に、出家せざるを得ない境遇となり、比叡山に登られ、厳しい修行に20年間耐え抜かれました。

しかし、救いの道を見出すことができず、悩み苦しまれます。

その後も、念仏の弾圧、師・法然聖人との別れ、

越後への流罪、長男善鸞(ぜんらん)の義絶(ぎぜつ)(親子関係を絶つ)等の苦難に見舞われましたが、

いかなる状況であっても、親鸞聖人が心の支えとしていたのが、お念仏の教えです。

どのような自分であっても、「我にまかせよ、必ず救う」と約束してくださっているお念仏の教えを喜ばれたお気持ちを、

親鸞聖人は随所に記されています。

そのお気持ちは私達にも通ずるもので、触れやすいものになっています。

この度は親鸞聖人の御命日法要「報恩講」です。

この機会に、親鸞聖人のことを身近に感じるためにお参りしませんか?

それが、仏教や生き方と向き合う変化の一端を担ってくれるものと思います。

少欲知足

コロナ禍の影響で外出を控えるようになった昨今、インターネット上で物品を購入するオンラインショッピングが主流となりました。

オンラインショッピングでは、インターネット上に表示された商品をその場で現金を払わずに気軽に購入できますので、
気付いたら買い過ぎた…と後悔した経験のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

仏教の言葉に「少欲(しょうよくちそく)というものがあります。

意味は「まだ得られていないものを欲しない、欲を抑え、既に得ているものに満足することで心が穏やかになる」というものです。

この少欲知足の精神は大切なものですが、私たちの実態はどうでしょうか。 

買い物に限らず、「あれが欲しい、こうしたい」と際限なく欲が湧いてきます。

実際は 欲という名の煩悩を抑えることが出来ない私たちです。

「煩悩を抑えることの出来ない私」に気付くと、「自分はダメな人間だ」と悩み苦しむ。

場合によっては、「仕方がないことだ」と開き直ることがあるかも知れません。

そのいずれの状態の私であっても、
「煩悩を取り除けないあなたのために私がいるのですよ」と呼びかけて下さるのが阿弥陀様です。

「煩悩を抑えることの出来ない私」に対して、「そんなあなたでも良いんだよ」と認め、受け容れて下さる阿弥陀様の存在は、どれほどに安心が出来、心強いものでしょうか。

その一方で、阿弥陀様の「そのままで大丈夫」というお心にあぐらをかき、開き直って、欲望の赴くままに生きる、というのは、
人として違うように思います。

そのような生き方を続けていくと、どこかで後悔することになるでしょう。

 

私たちにとって大切なことは「出来ないからダメ」で終わるのではなく、「出来ない私」に気付いた今、
どういう目標を持って、どう行動するかということです。

仏様の教えをいただくということは、常に自分を映して下さる鏡を持つようなものです。

私たちはそれによって自分の姿を知らされるのであります。

仏様の教えを聞き、「至らない自分」を知るからこそ、立ち止まることが出来ます。

立ち止まるからこそ、周りを見渡し、今の自分を見直すことが出来るのです。

阿弥陀様は「あらゆる者を救い摂りたい」という願い(本願)を立ててくださいました。

自らをコントロールすることが難しく、煩悩から離れることの出来ない無力な私たちを認め、受け容れて下さる阿弥陀様は、

ただただ有難い存在であり、その願い(教え)を信じ、生きるご縁をいただいている私たちは本当に恵まれているのです。

 

では、その阿弥陀様と出遇えたのは何故か。

それは親鸞聖人が比叡山延暦寺で、煩悩を取り除くための厳しいご修行をされた結果、
「煩悩は取り除けない」ことに気付かれたからです。

そこから阿弥陀様の教えと出遇われました。

「この素晴らしい教えを人々に伝えたい」と、幾度の苦難を乗り越えて、伝え続けて下さったからです。

この度は、その親鸞聖人のご遺徳を偲び感謝申させていただく御命日法要「報恩講」です。

ぜひ、ご一緒にお礼のお参りをさせていただきましょう。

仏教の本質について考える

新型コロナウイルスの終息が見えない中、この度の報恩講法要もインターネットを介してお参りいただくことになりました。

「コロナ禍に於いても、皆様に仏様の教えに出遇っていただきたい」との思いで始めたのが、この「オンライン参拝」です。

新たな試みは戸惑いの連続でしたが、「伝え方を変えるだけで、今まで届くことがなかった人に、仏様の教えを届けることができるかもしれない」と可能性を感じております。

例えば、今までは多くのご家庭が代表の方お一人でのご参拝であったのが、オンライン参拝では、離れて暮らすご家族も、それぞれの場所からお参りいただけるようになりました。

 

これまでは、多くの方が「同じ場所でお参りすることに意味がある」、そんな風に思われていたのかも知れません。

しかし、インターネットを介してお参りするからといって、お経の文言が変わる訳ではありません。

当然のことながら、一堂に会してお参りをしても、インターネットを介してお参りをしても、お聞かせいただく仏様のお心は何一つ 変わらないのです。

仏教の本質とも言える、大切なことに気付かされました。

   

仏教の真理、基本的な教えの一つに「諸行無常」があります。

全てのものは常に変化しているという意味です。

例えば、平成の約三〇年を振り返るだけでも、私達の生活は  大きく変わりました。

それを思えば、お参りする形も変化していく必要があるのかもしれません。

その一方で、どのような参拝方法になったとしても、いただく教えに変わりはありません。

だからこそ、仏教は廃れることなく、脈々と受け継がれてきたのでしょう。

仏様は「どんなあなたでも救い摂りたい」と願って下さっています。

そのお心と向き合うのに「同じ場所でお参り出来なければ意味がない」と条件をつけてしまうのは寂しいことです。

もちろん、「仲間と同じ場所に集い、お念仏の教えをいただく」ことに重きを置かれるお気持ちは尊いものです。

ですが、離れた場所でお参りしても、お念仏の教えをいただく仲間として繋がっていることは忘れないでいただきたいと思います。

  

全てのものは常に変化するという「諸行無常」の教えは、新しいことにチャレンジする大切さを教えてくれます。

新しく始めるということは、不安や恐怖・抵抗を伴います。その躊躇し葛藤する私の心の拠り所となるのが仏教です。

そのこと忘れずに、生きる 指針として大切にして、これからの激動の時代を生き抜いて参りましょう。

 

 

おかげさまと有難うの世界

おかげを持ちまして、過日のお盆法要に於いて歴代住職・前坊守の年忌法要を皆様とご一緒に勤めさせていただくことが出来ました。

その節は多くの方に色々とお気遣いいただきましたこと、心より御礼申し上げます。

普段は皆様とご法事を「司式」という立場で一緒にお参りをさせていただいて居りますが、

この度「施主」という立場で大切な身内の法事に臨ませていただき、

住職自身、改めて身に沁みて思わせていただいたことは「おかげさまと感謝の中で生かされている」ということでした。

 

仏教の大切な教えの一つに「縁起の教え」があります。

「縁起」とは「因縁生起」の略で、すべてのものは因縁により成り立っている、というものです。

私たちは決して一人では生きていけません。

たくさんの命をいただき、まわりの多くの人に支えられて、数え切れないほどの因縁によって、私たちは生かされています。

門徒の皆様と、今こうしてご縁を持たせていただけているのも、

歴代住職・坊守が、皆様のご先祖様が、正楽寺を護り続けて下さったからこそです。

多くのご縁によって「おかげさま」で生かされている自分の姿を知るからこそ、「有り難い」と感謝することが出来ます。

「有り難い」と「おかげさま」の世界を生かされている私たちなのです。

 

では、いつもそのことが念頭にあるかというと、なかなか難しいものがあります。

それでも繰り返し「気付けよ、思い出しておくれよ」と声にならぬ声で私たちに呼びかけて下さっているのが

仏様であり、大切な亡き方々です。

住職自身、この度のご縁で、ご法事は大切なことを思い出せてくれる仏様・亡き方からのプレゼントなのだと

改めて気付かせていただいたことです。

そして、この度の報恩講は仏様のみ教えを私たちに伝えて下さった親鸞聖人の御命日法要です。

親鸞聖人とのご縁があってこそ、私たちは仏様のみ教えに出遇わせていただくことが出来ました。

それは「おかげさま」と「有り難い」ご縁以外、何ものでもないのです。

そのことに改めて「有難うございます」と、感謝の気持ちでご一緒にお参りさせていただきましょう。               

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