浄土真宗ではいわゆる「檀家」という言葉を使いません。
親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、阿弥陀様によって信心をめぐまれ、念仏の生活にいそしむ人を「門徒」と呼びます。
元々は親鸞聖人のお聖教(書物)の中に出てくる言葉で、門徒とは「一門の徒輩」という意味です。
つまりは、「同じ宗門の仲間」、「阿弥陀様の救い、お念仏に遇わせていただく浄土真宗の信者」のことでありますが、
より厳密に言うと、所定の手続きを経て各寺院備付の門徒台帳に登録され、維持費を負担している人を門徒と呼んでいます。
親鸞聖人は同じお念仏の教えをいただく仲間のことを、「御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)」と敬い、共に歩まれました。
つまり、老若男女問わず、門徒も僧侶も、あらゆる違いを越えて一切が平等であり、仲間であり、友であると仰られています。
それは「みんないのちの仲間なんだよ、仏の子なんだよ」と教えてくださっているのです。
私たちはいつの日か、この世の生命を終えていかなくてはなりません。
「生は偶然、死は必然」という言葉がありますが、私たちはいつの間にか「生は必然、死は偶然」のような錯覚に陥っています。
生きていることが「あたりまえ」になっています。
生命のことだけではありませんが、「あたりまえ」のことには中々感謝できません。
生きていてあたりまえ、家族が居てあたりまえ、ご飯が食べられてあたりまえ…。
あたりまえの事など本当は何一つ無いのに、全てがあって「あたりまえ」と、無意識のうちに思い込んでいるのが私たち人間です。
では、そのことにいつ気付けるのでしょうか。
その大切な機会がお寺の本堂で、お仏壇の前で、手を合わせ、お話を聴かせていただく時なのです。
その中で阿弥陀様のお育てにあずかる。
「南無阿弥陀仏」とお念仏申す仏の子に育てていただくのです。
そして、それは生命をいただいている「今」しかありません。
どうか気付かせてもらえる有難さに出遇う機会を大切に、新しい一年を過ごさせていただきましょう。
新年を迎えました。お正月には家族・親族が集まり、新しい一年の挨拶を交わされる方が多いことでしょう。
また、年賀状でご縁のある方とも新年の挨拶をされることと思います。
その一方で、昨年中にご家族にご不幸があった方は「年賀欠礼状(喪中葉書)」を出される方もいらっしゃるかも知れません。
昨年、私たち寺族も先代住職が往生致しました。
ですが、私たちは今年も例年通り、ご門徒の皆様をはじめ、
ご縁のある方々に年賀状を新年のご挨拶として送らせて頂きます。
それは何故かと言うと、浄土真宗には「喪に服する」という考え方は存在しないからです。
私たちは法名に「祥」や「瑞」といった文字を用いらせて頂くことがあります。
その人その人によって状況も異なりますが、共通した意味として「めでたい」という意味があります。
何がめでたいのかと言うと、「この人間世界で阿弥陀様とご縁を持たせて頂いた私たちは、
六道輪廻して次はどこの世界に生まれるのだろうか、成仏出来るのかと不安になることなく、
間違いなく、西方極楽浄土へ仏として救われていくことが約束されている」と言うことです。
確かに、遺された家族にとって、最愛の家族との別れは辛く悲しいものです。
私たち寺族にとっても先代住職との別れは、いつ心が癒される日が訪れるのか分かりません。
ですが、私たちの気持ちとは別として、純然たる真実として「阿弥陀様のお念仏とご縁を持った者が
人間世界の生命を終えるということは、お浄土という、還りつくところへ還らせていただく、喜ばしいこと」なのです。
それ故に私たちは喪に服する必要はありません。
むしろ、先立たれた大切な方が、遺された私たちに阿弥陀様の示して下さる道とを取り持つ「仏縁」を結んで下さったのです。
悲しい淋しい気持ちの中にも「私たちと仏様とのご縁を結んでくれて有難う、
私の生命について教えてくれて有難う」という感謝の気持ちで新年を迎えましょう。
近年は暮れからお正月にかけて街中で門松をみる事がほとんどなくなってきました。お正月の風物詩がひとつまた一つと消えていくような感じがします。そして良いことなのでしょうか?日本人が世界でも指おりの長生きになりました。長生きになった日本人は悲しいことに「自分が死ぬ」と云う事も忘れてしまっているようです。いつも書かせていただくことですが、お通夜・四十九日で死は「人ごとではなく我がことと受け止めなくてはならない」と話していますが、聞いている方は「親が亡くなっていても、つれあいがなくなっていても、たとえ我が子が亡くなっていても」 すべてが人ごととしか受け止められないようです。その悲しみは・受け止めたことは数時間で・一晩経つと消えていってしまうようです。我が子を亡くして号泣していた親も次にあった時にはケロッとしている姿に唖然とさせられることさえあります。悲しみを引きずる必要はありませんが、亡くなっていった方が身をもって示してくれた無情の世界を、必ず「死ぬ」と云う現実までも忘れてしまっては・・・・・。
多発性肝臓癌を発病した住職は、我が命の行く末を改めて考えさせて頂く時間をもたせていただきました。やがて訪れる私の命の終わりの時を皆様にしっかり伝えていく事が住職の仕事だと思っています。その前に親鸞聖人が蓮如上人が伝え残して下さった大切な教えを皆様とご一緒に聴聞させて頂くと共に、浄土真宗の門信徒としての心構え(何をすべきで何をしてはならないのか)を厳しく伝えていかなければならないと考えています。日頃住職はなんと情けない事をして下さる門信徒が多いのかと感じているのが現実です。
昨年十二月五日に歌舞伎の中村勘三郎氏が五十七歳で命を終えていきました。弔問客や報道各社は異口同音に「早すぎる死」と表現したようです。何が早すぎるのか不思議でなりません。
逆に何歳になれば早くない年齢といえるのでしょうか?
確かに日本は長生きの国になりました。しかし、誰もが必ず長生き出来るわけではありません。たまたま長生きの方がいて下さるだけのこと。自分も長生きできると勝手に勘違いをしているのが日本人なのです。自分も家族も勝手な思いこみの中で生活をしています。そして命の終わりを迎えたときにあわてふためくのです。
この文章を読まれた方は、もしかしたら新年早々死の話しなんて縁起でもないと思われるかもしれません。縁起が良い悪いとは何でしょうか?そもそも「縁起」とは、あらゆるものは直接・間接の諸条件によって生ずると云う意味です。別の表現に「この寺の縁起は」つまり、どう成り立ってどんな歴史があるのかといった使い方をします。ものの興りや歴史が何故、縁起が良い悪いと云う表現になるのでしょうか?つまり日本人はそれほどいい加減なものの解釈しかしていないのです。死を迎えるのに早いも遅いもありません。それぞれが頂いてきた寿命を終えていく日がやってきただけです。「老少不定」に何故気付けないのでしょうか?
仏教が、お寺が、死んでから必要なものと大きな勘違いをしている人ばかりだからでしょう! 十二月の伝道掲示板の言葉に「仏教は死の準備ではなく、生の糧である」とあります。日常生活の中に仏教・お寺と向き合っていく姿勢を培う事が大切な事なのです。早く気づいて下さい。まだ間に合うかもしれません!
現代社会で流行っている?葬儀に家族葬と呼ばれるものがあります。隣近所には一切知らせない・もっと凄いものには親戚にも知らせないで葬儀を勤める、それがもっと進むと葬儀もしない読経も法名(他宗では戒名)もいらないと云う直葬になってしまいます。親の葬儀を勤めないと云う信じられない現象が起こっているのです。親の恩など現代人には無縁の言葉なのでしょうか?
命を与えて下さった事への感謝、今自分がこうして生きている事への感謝等々は「死んだ人間に使うお金が惜しい・自分の生活の方が大事」と云う考えに負けてしまうのでしょうか?確かに葬儀費用が用意出来ない方がいるのも現実なのかもしれませんが・・・
最近ご家族からの葬儀の依頼で、よく聞く言葉が「個人の遺言で誰にも知らせずに家族葬で」と云われます。住職が亡くなられた方をよく存じ上げている場合が多々あります。あの方が家族葬を望むなんて信じられないと云う思いが心を駆けめぐります。
あの方には送って欲しいとの思いが、きっと有るかと思います。亡くなられた方の意志を無視する事が有ってはならないことと思います。
今年からお寺では、皆様の葬儀への思いをお預かりするシステムを始めようと思います。葬儀の形(知り合いには知らせて欲しい・家族葬でよい等々)や知らせて欲しい方の名簿を封筒に入れて封印の後、署名捺印をしてお預け下さい。開封は提出された方が亡くなられた後住職が確認させて頂きます。当然書き換えも自由です。書き換えた時は以前提出されたものは、そのままお返し致します。お正月の初参りからお預かり致します。
感謝と報恩を忘れしは人にあらず