仏事の心得仏事の心得

いつも あなたのそばに

日本最古の仏壇をご存知でしょうか。

それは飛鳥時代の「玉虫厨子(たまむしのずし)」です。

七世紀中頃、推古天皇が朝夕拝まれる念持仏として作られたとされています。

その後、685年3月27日、天武天皇が「諸国の家毎に仏舎を作り 即ち仏像と経を置き 礼拝供養せよ」と勅命を出されました。

それが仏壇普及のはじまりと言われ、3月27日は「仏壇の日」とされています。

ただし、当時の仏教は一部の人だけのもので、市井の人々の間で仏壇が普及するようになったのは江戸時代、幕府の寺請制度の政策がきっかけでした。

 

浄土真宗では、室町時代、本願寺の第八代宗主蓮如上人が「南無阿弥陀仏」の名号を下付されたことにより、

人々が仏様に手を合わせてお参りするという習慣が根付きました。

そして蓮如上人は「本尊は掛けやぶれ」と仰いました。

当時、御本尊(名号)を全ての家にご安置することは難しいことだったと思います。

恐らくは、講(人々が集まりお参りする会のこと)の際、その都度、御本尊を掛け直していくということを繰り返すため、

「掛けやぶれるほど、何度もお参りをしてください」という意味で仰ったのだと思います。

それは、仏様に手を合わせお参りすることの大切さを説かれたお言葉です。

 

浄土真宗における仏壇は、お寺の本堂を模したものとされています。

浄土真宗のお寺の本堂は仏説阿弥陀経に説かれる西方極楽浄土を表現するために金色を基調としています。

ご家庭での本堂がお仏壇ですので、浄土真宗では金仏壇が正式とされています。

また、「仏壇は家長などの誰かが受け継げば良い」という考え方をお持ちの方が少なくないようですが、

お参りをして仏様の教えを聞くということは、「一家の誰かが代表して行う」というものではありません。

それぞれが日々お参りをして、生活の中で感謝の思いと我が身を省みる場所として、お仏壇を構えていただくことが望ましいのです。

 

全ての方にとって、ご家庭のお仏壇という場所は、先立たれた方を偲ぶ中で、仏様を身近に感じる場所であってほしいと思います。

お子様がぬいぐるみや人形を友だちとして、いつもそばに置き、話しかけるように、

皆様にとっての仏様も、いつも傍にいて、ただ黙って私の話を聞き、寄り添ってくださる。

お仏壇・仏様は「特別な場所」ではなく「一番身近な場所」であってほしいと思います。

宗教は誰のもの?1

先日、ご質問をいただきました。

その内容が、多くの方に知っていただきたいものでしたので、この「仏事の心得」でも、ご紹介させていただきます。

それは、「信仰は何故大事なのですか?」というご質問に対してお話をするというものでした。

 

信仰とは、「信じ仰ぐ」ことです。

したがって、「仏教を信仰する」というのは、「私が、仏様の教えを信じ仰ぐ」ということです。

仏様の教えには、「この私」の在り方や心理を含む、この世の不変の真理が説かれています。

例えば、「死」に ついては、「諸行無常」という言葉で教えてくださっています。

「諸行」とは、あらゆる現象・事象ということで「無常」とは、常に変わらず在り続けるものは無いということです。

私たちは年を重ね「老い」を経験していますが、これも「諸行無常」なのです。

このように、日頃「これは仏様の教えです」と言われるまでもないようなことも、仏様は教えてくださっています。

それくらい、仏様の教えは、私たちの生活に深く根差しています。

仏様の教えに示される内容は不変の真理であるため、時に耳の痛いこと、鋭い指摘を受けることもあるかも知れません。

それでも逃れることの出来ないものです。

不変の真理と向き合い、自分はどのように生きていくのか。

心の持ち方や死への恐怖等、科学の力では解決出来ない不安や苦悩と向き合い、仏様の教えに問い続けながら歩む道が真実の宗教であると言えます。

仏様の教えは人生の道しるべとなってくれるものなのです。

仏様の教えは不変の真理でありますが、個々人の人生に落とし込んだ例話を聞かないと、どこか「他人事」のように聞いてしまうこともあるかも知れません。

しかし、決して「誰かのため」の教えではありません。

「私が仏様の教えを信じ仰ぐ」ということを忘れてはならないのです。

そして、その話しを聞く場所としてお寺は存在しています。

この度の永代経法要は総追悼法要であると同時に「教えを聞く場所が、代々に渡り存続するように」という願いと共にお参りをさせていただく法要です。

今一度「何故、お寺の本堂にお参りをすることが大切なのか?」ということを再確認していただき、限り有る大切な時間をご一緒に過ごさせていただきましょう。

世間虚仮 唯仏是真

春は別れと出会いの季節です。

親しい人との別れがある一方、新しい出会いもあります。

どちらが良いという訳ではないのですが、何となく「別れは悲しく、出会いは嬉しいもの」と

思われている方が多いのではないでしょうか。

私たちは物事を自分から見える一方向でしか捉えることが出来ません。

「人との別れ」について申せば、それは「別れ」という出来事ですが、

そこに「悲しい」「寂しい」という感情をくっつけてしまうのが、私たち人間です。

人間はどこまでも自らの思い中心にしか生きていけません。

その結果、自らの思いで自分自身を苦しめたり、「自分の考えが善、自分と異なるあの人の考えは悪」のような

判断をしてしまいがちです。

一方向からしか見ていないのに、全部見えていると思ってしまっているのが、私たちの偽ることのできない姿です。

仏教ではそれを「我(自分の都合・はからい)にとらわれている」「我執(がしゅう)」と言います。

 

さて、今年は親鸞聖人が「和国(わこく)の教主(きょうしゅ)」と讃(たた)えられ、日本に仏教を取り入れてくださった

聖徳太子の一四〇〇回忌に当たります。

聖徳太子は「世間(せけん)は虚仮(こけ)なり、唯(ただ)仏(ほとけ)   のみ是(こ)れ真(しん)なり」という言葉を残されています。

この世にある物事はすべて仮のものであり、仏の教えのみが真実である」という意味です。

先程も申した通り、私たちの   物の見方は、自らの思いを中心とした一方向からのもので、真実と言えるようなものではありません。

例えば「老い」というもので申しますと、ある人は「情けないこと、目を背けたくなるもの」と、

マイナスの感情をつけることでしょう。

その一方で「人生を色濃く豊かにするもの」とプラスのイメージをつける方もいらっしゃるでしょう。

どちらも「老い」という現象に「私の感情をつけて捉えている」に過ぎず、その感情に振り回されてしまいがちです。

仏さまは「老い」ということも「諸行無常」、つまり、この世のものは絶え間なく変化しているものだと教えてくださっています。

「世間(せけん)は虚仮(こけ)なり、唯(ただ)仏(ほとけ)のみ是(こ)れ真(しん)なり」とは、真実を見ているつもりでも、

実は自分のはからいでしか世界(物事・他者の気持ち等)を見ることができない私たちだからこそ、

仏さまの教えを指針とせよというお示しであります。

 

私たちは、自分の感情、他人の意見に振り回されていると、つい自分を見失いがちです。

そのような中、「不変の在り方」を教えてくださる仏さまの教えほど、私たちの人生の道しるべとなるものはありません。

それを心の拠り所として、しっかりと生き抜く力を身に付けるためにも、

これからもご一緒に仏さまの教えを聴かせていただきましょう。

これからを生きるために必要なこと

新型コロナウイルスの感染が広がり、終息の見通しが立たないことから、
多くの人が先行きの見えない不安に襲われているのではないかと思います。

増加する感染者の報道は、感染に対する恐怖心はもちろん、様々な不安を煽ります。

不安にばかりアンテナを張ると、自分の心の中に不安な思いを溜め込むことになります。

終いには、その不安を一人で抱え込むことが出来なくなり、
周囲に八つ当たりをしてしまう人もいらっしゃるのではないでしょうか。

でも、自分に問いかけてみてください。

 

「本当にそんな在り方でいいのか?」と。

 

今大切なのは、漠然とした不安に飲み込まれてしまうことではなく、
「自分の在り方」をしっかりと見直すことなのです。

私たちは国境・人種・貧富の差など、あらゆる格差を超えて老若男女問わず、平等に生命をいただいています。

そして、この生命があるからこそ、生活が出来ます、仕事が出来ます。
大切な人と時間を過ごすことが出来ます。

だからこそ、今この瞬間を大切に過ごさせていただきたいと思うのです。

 

お釈迦様は晩年、お弟子たちにこのようなお言葉を残されています。

 

自らを灯明とし 自らをたよりとして 他をたよりとせず

法を灯明とし 法をたよりとして 他のものをよりどころとせずにあれ(大般涅槃経)

 

これは「自灯明 法灯明」と言われています。

私たちは他人に言われたことに左右され、
自分で何が正しいかを見定めようとしない安易な生き方をしてしまいがちです。

なぜなら、その方が何か問題が発生したときに、他人のせいにできるからです。

でもそうではなく、何が正しいのかを見定めて、自分を確立させていくことが大切であり、
そのことを「自らを灯明とせよ」とお釈迦様は仰られました。

その根拠が仏法(物事の真理・本当の在り方)であり、そのことを「法を灯明とせよ」と仰られました。

仕事をすることも大切、食べることも大切です。

でも決して間違わないでいただきたいのは、全て「生きてこそ」なのです。

決して順番を間違えないでください。

そして自分を整え、自分の人生をその身に引き受けて生きていくために、
「自分の在り方」を仏法の中に聞かせていただく。

そこに、毎日を安心して生き、安心して生命終わっていくことのできる人生がひらけてくるのです。

どうぞ、これまでの「仏事の心得」を何度も読み返していただきたいと思います。

何度も腹落ちするまで読み返して、しっかりとこれからの時代を力強く生き抜いて参りましょう。 

新しい時代に向けて~和顔愛語~

先日、新元号が発表されました。

「平成」の時代も残りわずか、「令和」という、新しい時代を迎えます。

「令和」は万葉集の和歌から引用され、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という意味が込められていると

首相談話にありました。

「文化が生まれ育つ」とは、新しい文化が育つことはもちろんですが、これまでの日本文化を見直す、

ということにも当たるのではないかと思いました。

日本文化を見直す、ということは、これまで脈々と受け継がれてきた先人たちの知恵や心の育みを改めて大切にさせていただく、

ということに当たりましょう。

心の育みの一つには「今、生かされている私の生命に気付かせていただく」ということがあります。

  
新元号に用いられている「和」は仏教用語でも用いられています。

その一つが「和顔愛語」です。

この「和顔愛語」は平成二十八年に皆様と団体参拝致しました伝灯奉告法要の際、

ご門主様の御親教(ご法話)にも取り上げられました。

この御親教の中では浄土真宗に縁をいただく私たちが現実生活の中で実践できる一例として示されています。

本来は、阿弥陀様が如来(仏)となられる前の法蔵菩薩であったときの修行の一つであり、

他者に接する時は、穏やかな表情で接し、常に優しい言葉をかける生き方のことを指します。

とても素晴らしい生き方であり、私たちも普段、「気をつけましょう」と言われているようなことかもしれません。

ですが、実際の私たちは不機嫌になったり、腹を立てたり、自分の感情に振り回されてばかりで、

中々、和顔愛語の姿勢を貫くことが難しい身であります。

そのような私が阿弥陀様のみ教えと出遇い、お育てにあずかることによって、

穏やかな表情や心からの優しい言葉が生まれるというのが浄土真宗です。

 

もちろん、穏やかな表情や優しい言葉はすぐに身につくというものではないかもしれませんが、

ご門主様は和顔愛語という生き方を勧められ、

「たとえ、それが仏様の真似事といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、

そのように志して生きる人間に育てられるのです」とお示し下さいました。

新しい時代を迎えるにあたり、和顔愛語の心持ちで、

改めて「和」する時代、皆様と心の豊かさを育む時代を迎えさせていただきたいと思います。

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