昨年十二月五日に歌舞伎の中村勘三郎氏が五十七歳で命を終えていきました。弔問客や報道各社は異口同音に「早すぎる死」と表現したようです。何が早すぎるのか不思議でなりません。
逆に何歳になれば早くない年齢といえるのでしょうか?
確かに日本は長生きの国になりました。しかし、誰もが必ず長生き出来るわけではありません。たまたま長生きの方がいて下さるだけのこと。自分も長生きできると勝手に勘違いをしているのが日本人なのです。自分も家族も勝手な思いこみの中で生活をしています。そして命の終わりを迎えたときにあわてふためくのです。
この文章を読まれた方は、もしかしたら新年早々死の話しなんて縁起でもないと思われるかもしれません。縁起が良い悪いとは何でしょうか?そもそも「縁起」とは、あらゆるものは直接・間接の諸条件によって生ずると云う意味です。別の表現に「この寺の縁起は」つまり、どう成り立ってどんな歴史があるのかといった使い方をします。ものの興りや歴史が何故、縁起が良い悪いと云う表現になるのでしょうか?つまり日本人はそれほどいい加減なものの解釈しかしていないのです。死を迎えるのに早いも遅いもありません。それぞれが頂いてきた寿命を終えていく日がやってきただけです。「老少不定」に何故気付けないのでしょうか?
仏教が、お寺が、死んでから必要なものと大きな勘違いをしている人ばかりだからでしょう! 十二月の伝道掲示板の言葉に「仏教は死の準備ではなく、生の糧である」とあります。日常生活の中に仏教・お寺と向き合っていく姿勢を培う事が大切な事なのです。早く気づいて下さい。まだ間に合うかもしれません!
お彼岸のお参りに伺ったお宅の中で気になったことがあります。
それは、お仏壇に湯呑やコップを使ってお水を供えている方が、いまだにいらっしゃったことです。再三、住職が仏事の心得に書いていると思います。
ある雑誌の仏事に関する記事には「仏様が飲めるように、茶湯器の蓋は取って供えます…」ともあったようです。
このように水を供えるのは「仏様や亡くなった方の、喉を潤すため」とお考えの方が多いのではないでしょうか。
しかしながら、亡くなった方々が往生された阿弥陀様のお浄土には「八功徳水(はっくどくすい)」という“八つの功徳のある”(甘味・冷たい・軟らかい・かろやか・浄らか・無臭・のどにまろやか・お腹をこわさない)水がふんだんにたたえられた池があり、わざわざ私たちが消毒した水を供える必要はないわけです。このことは「阿弥陀経」というお経の中にも説かれており、この上もなく清浄で、美しい八つの徳を持つ水に恵まれた国土であると説明されています。細かく云えば、仏様の世界においでになる方々は「喉の渇きを感じることなど あり得ないのです。」
さらに、こうした「喉の渇きを潤すため」という行為は追善の意味合いが濃く、阿弥陀様のお心には添いません。ですから浄土真宗では、湯呑やコップを使って「仏様や亡くなられた方々に飲んでいただく」ような水の供え方はしないのです。とは言っても、「お水そのものがいけない」というわけではありません。
浄土真宗では華瓶(けびょう)という小さな一対の花入れの仏具を用いて、そこに水を入れ、樒または青木(色花は用いない)をお供えします。仏事には一定の作法があり、ご飯をお供えするのにお茶碗ではなく仏飯器を用いるようにお水を供えるには華瓶を用いるのです。樒や青木を入れるのは香木だからで、つまり香水にしてお供えさせていただくのです。阿弥陀様のめぐみを浄らかな香水にして供えるところに、敬いと感謝の心が込められていると言えます。なお、華瓶がなければ敢えて水を供える必要はなく、湯呑やコップで水は絶対に供えません。詳しい仏壇の荘厳の仕方はお寺からお配りしている聖典の後ろの方に記載されています。ぜひ、一度ご自分のお飾りの仕方(荘厳)が間違っていないか、確認してみて下さい。
今回は副住職の娘がお彼岸詣りで気がついたこと・気になったことを書かせて頂きました。(添削は住職です) 結局、再三住職が書かせて頂いていることが、活かされていないと云うことになります。結局、何度書いても読んで下さらない方は、読んで下さらないと云う事でしょう。
三つ付いている蝋燭立てや香炉の足も未だに二つが前にきているお宅が何軒もあります。本当に情けないことです。
「継続は力なり」と云う言葉がありますが、何回同じ事を書けば気付き、直して下さるのでしょうか?
ある時目にした訃報に、但し書きのように添えられた言葉がありました。「故人の意志により、お香典・生花等は一切固くご辞退致します」故人は九十歳を過ぎた方でした。しかも家族葬とのこと。
故人の意志と云う言葉はとても都合の良い言葉です。死んだ人は二度と口を開くことはありません。本人の意思とまったく違った事でも全て故人の意志になってしまいます。
最近のお年寄りは、家族(我が子)に遠慮して肩身の狭い思いをしながら暮らしています。わが身を削って育てた子供にでさえ何も言えないのです。それを当然と思っている子供がいる事も事実です。何故でしょう? 「善因善果・悪因悪果」「因果応報」の言葉のとおり親にした仕打ちが、いずれわが身に返ってくることに気がつかずに・・・。
お正月の【仏事の心得】に書いたようにお寺では、皆様の葬儀への思いをお預かりするシステムを始めました。葬儀の形(知り合いには知らせて欲しい・家族葬でよい等々)や、知らせて欲しい方がいれば、その名簿等を封筒に入れて封印の後、署名捺印をしてお預け下さい。開封は、提出された方が亡くなられた後、住職が確認させて頂きます。当然書き換えも自由です。書き換えた時は以前提出されたものは、そのままお返し致します。
【仏事の心得】は貴方だけが読むものではありません。いつも家族全員で読んで下さい
感謝と報恩を忘れしは人にあらず
お彼岸中の出来事です。昨年末に発症した椎間板ヘルニアの影響で、痛みを和らげるために杖を使用しながらお参りさせて頂いていました。彼岸まいりも十一日目くらいになっていた日の朝たまたま小学校の登校時間に、あるお宅に伺うのに車を降りました。路地に入る一番近くに娘が車を停めてくれましたが、たまたま横断歩道の上に車を私が降りる間停めてしまいました。足腰の痛い親を思って一番近い所に車を停めたのだと思います。当然路地の入り口ですから娘は車をすぐに移動させたはずです。路地を奥に向かって歩いていく私の背中に「こんな所に車を停めるんじゃないよ」と云う男性の声が突き刺さりました。横断歩道で小学生の交通安全のために旌を振っていて下さる昔風に云えば緑のおばさんならぬおじさんの声でした。きつい口調からして決して笑顔で語りかけて下さっているとは思えません。怖い顔から発せられていると誰でも想像できる口調でした。言われた娘にしてみれば親の事を考えてほんの少しだけ停めた事、確かに横断歩道の上に車を停めたことはいけないことかもしれませんが、長時間停めっぱなしにしたわけではありません。すぐに移動させています。
私達の日常会話の中には相手を傷つけてしまうような言葉が含まれていることもあると思います。言葉は相手を傷つけたり・慰めたり・喜ばせたり・怒らせたりと命を持っています。
一つの言葉でケンカして 一つの言葉で仲直り
一つの言葉でほほえんで 一つの言葉で泣かされた
ひとつの言葉はそれぞれに ひとつの命を持っている。
思いやりのある言葉を使いたいと常々思っているのですが、確かに難しいですね。でも気遣い・心遣いは忘れずにいたいものです。
現代社会で流行っている?葬儀に家族葬と呼ばれるものがあります。隣近所には一切知らせない・もっと凄いものには親戚にも知らせないで葬儀を勤める、それがもっと進むと葬儀もしない読経も法名(他宗では戒名)もいらないと云う直葬になってしまいます。親の葬儀を勤めないと云う信じられない現象が起こっているのです。親の恩など現代人には無縁の言葉なのでしょうか?
命を与えて下さった事への感謝、今自分がこうして生きている事への感謝等々は「死んだ人間に使うお金が惜しい・自分の生活の方が大事」と云う考えに負けてしまうのでしょうか?確かに葬儀費用が用意出来ない方がいるのも現実なのかもしれませんが・・・
最近ご家族からの葬儀の依頼で、よく聞く言葉が「個人の遺言で誰にも知らせずに家族葬で」と云われます。住職が亡くなられた方をよく存じ上げている場合が多々あります。あの方が家族葬を望むなんて信じられないと云う思いが心を駆けめぐります。
あの方には送って欲しいとの思いが、きっと有るかと思います。亡くなられた方の意志を無視する事が有ってはならないことと思います。
今年からお寺では、皆様の葬儀への思いをお預かりするシステムを始めようと思います。葬儀の形(知り合いには知らせて欲しい・家族葬でよい等々)や知らせて欲しい方の名簿を封筒に入れて封印の後、署名捺印をしてお預け下さい。開封は提出された方が亡くなられた後住職が確認させて頂きます。当然書き換えも自由です。書き換えた時は以前提出されたものは、そのままお返し致します。お正月の初参りからお預かり致します。
感謝と報恩を忘れしは人にあらず